【ブラジル移民の詩】 早川清貴さんの短歌集です。
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早川さんは、私より1年程(年齢も着伯年も)先輩にあたり同じ年代を同じブラジルで過ごして来られているようです。生きて来た場所は違うものの共通の知人友人も多く旧知の同士のような気がしております。61年に着伯、農業移住者としての1年、東山銀行、住友商事勤務の後、新日鉄南米事務所に20年以上勤務され現在は年金生活の傍ら企業コンサルタントをされており、余暇を短歌の作詞に注力、57577の31字に凝縮された移民の歴史を残されることに全力を挙げておられます。
『ブラジル移民の勇猛果敢な<生きざま>を少しでも多くの日本の短歌愛好家に知って貰う趣旨より<ブラジルの移民に関して>多く詠むように心がけております、そのため時間の許す限り旧植民地訪問、先輩諸氏との会話又その筋の専門書に親しむ等移民史を遡及して同胞愛を深めております。』との早川さんからのお便りと共に写真を送って頂きました。
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ブラジル移民の詩
A)移住者点描
=ほつれ蓑煤けたかまど手垢斧往時を偲ぶ移民資料館
移民資料館を訪れた、陳列品は古く使い込んだ家具、農具その他であるが其れ等が何か移民者の悲哀を訴えておるような気もした、遥かな先駆者の苦闘に心を馳せた。
=陽炎の燃え立つ昼の田舎道下校の子供は素足に歩む
奥地の植民地を訪ねたその折に町の入り口で見かけた情景である、学校帰りの日系の生徒が暑い昼下がり素足で村道を歩む、草から草を渡り歩いて上手く歩いている、靴が買えない訳ではなかろうが、それから彼方此方でこの情景をよく見かけた。
=高原のサナトリュムは寂として訪ふ人のなし桜又咲く
カンポスジョルドン、高原の援護協会ホームを訪ねた、一昔は日系の結核患者が収容されておったと聞くが、現在では、その目的は薄れて老人ホーム的な存在である又観光客も宿泊できるようだ、丁度桜の季節であった人間の営みとは関係なく今年も又桜が開いた。
=牧童の角笛響き屠殺場へ追はるる牛の群歩み遅し
サンパウロ州奥地の情景である、ボイアーダ(牛の群)を屠殺場に誘導する習慣はトラック等の大型化から最近では、余り、見みられない珍しい情景である、角笛が低く腹に堪える牛の群が動くとも無く遅々として進む、強い陽光がふんだんに降り注ぐ午後の田舎道であった。
=読み書きを禁じられたる日本語の書籍読みしと蝋燭の燈に
サンパウロ市近郊の植民地で日本学校先生の話では日本国が連合軍に宣戦布告してから日本人は<敵国人>と見なされ日常の活動に厳しい規制と、制限が加えられた、日本語での会話禁止、通行許可書(サルヴァコンヅット)なしでは国内移動出来ぬ、日章旗を踏せるそれに日本語の書籍の家庭内保持も禁止された、電燈を点けずにローャNの暗い明かりで怯えながら読書をした等移民者にとっては暗い、辛い時期であったようだ。
=四十年訪ねしことなき開拓の我があばら家に風の渡りぬ
かって小生が奮闘した原始林開拓地にたまらぬ郷愁を覚えた奥地を訪ねた折に思い切って足を伸ばした、四十年振りの対面今は開拓地を管理する人も無く茫々として荒れ放題、一年間暮らしたあばら家は四十年風雨に耐えたされど崩れ落ちそうな状態である、壁に書き込んだポル語の練習跡もそのままであった野を渡る風がピウーピウーと泣いた。
=先駆者の行きつ戻りつせし径に密かに咲きぬ我知らぬ花
ペレイラバレット植民地の先駆者自らが昔苦労した耕地に案内された其処に辿り着く細い道で「この野道を星を見て星に帰った」と説明があった、その小道は70年後の今日未だに同じ状態である由、人の通わぬ小道に何の花だろう咲き乱れて満開だった。
=夜逃げして移民先駆者飲みしとふ洞穴の水涙の如し
ジュキア、イグアッペ地方の植民地を訪ねた折に、ブラジル人の老人によると昔日本人ガ夜逃げした時に一夜を明かしたとする洞穴に案内してくれた、雑草に包まれたその穴は人間が頭を下げて入れる位の高さ、奥行き2/3メートル程でひっやとして天井から雫が落ちていた、恰も夜逃げ移民の涙の如し。
=マラリヤに倒れし同胞夜に昼に埋める場所なき開拓地なりと
1915年8月現在のカフェーランジャに初めての個人造営の植民地「平野植民地」が出現した、しかし翌年の1916年入植者の殆どがマラリヤに罹り折しも栄養も摂れない貧困な生活故バタバタと倒れ犠牲者は最初の一年目に80名に及んだ<移民史上最悪の惨事>で有ったと当時の新聞<時報>は伝えている、現在は往時を偲ぶことのよすが無く緑続く牧場である。
=朝に星月と語りて農場へ通いぬ小径車に走る
農場に毎日エンシャーダを担いで通った農道は今は車、トラックターの走る道と化した、今昔の感に絶えない。
=夢は果てし移民者多し異国(とつくに)の土に望郷の思い遺して
一攫千金を夢見て又は青山を求めてやって来た移民者の多くは懸命に戦えども成功はおぼつかず、初心の大志掴めず異郷の土と化した、この実態が移民社会の大部分ではなかろうか。
=マラリヤに逝きし移民の慰霊碑のぽつんと建てり訪う影もなく
上記風土病に倒れた先駆者も祀る慰霊碑が牧場の一角に現存するが誰とて訪ねる人もなく時の流れに惨事は癒えて消え去ろうとしておる。
=丸太小屋土壁なれど小学校先ず作りしと移民先駆者
ペレイババレットには「輪子俊五郎」と言う新聞記者が1960年頃まで存命した由、かれは常に口癖で欧米人は植民地に先ず教会、広場と公園等を建てたが日本人は先ず小学校を建てた其処が人類の優秀性の違いであると日本民族の矜持を振りかざしていた由。
=大粒の富有柿両の掌にとれば祖国に負けぬ先人の努力
ピエダッデ植民地の<柿祭り>に出かけた屋台で販売する柿は両手一杯の大きさで掌にずっしりと重い、土地の人に聞く処によると先駆者は日本の柿に負けぬものつくりに弛まぬ改良努力した結果今日の柿がある由。
B)老人ホーム
=春来れど老人ホームに笑い無く零るる躑躅朱鮮やか
援護教会の老人ホームで出会った情景、ヴェランダで誰も黙して語らず遠く縁を見つめる何を考えておるのか、庭の躑躅の朱色が零れるように美しくせめてもの慰めであった。
=棄民のごとホームに住まう老人の星雲の志を今も忘れず
一人の元気なご老人と話が出来た、ノロエステ線植民地の出身で、子供達には教育を施し夫々立派に生活しておるが、遣り残した牛飼いの仕事をやってみたいと元気なところを見せて呉れた。
=開拓の燃えし時代を語るなく老いひねもす椅子に沈み
ホームの玄関脇のヴェランダに一人の老人がロッキングチエアーに沈み込み黙して語らず、容姿から田舎出身と見受ける、多分全力疾走で走った人生で疲れ果てておるのだろう。
=老人ホームTVを囲む幾人の眼うつろに移住先駆者
ホームの娯楽室のTVはNHKの番組を放映していた、皆それぞれ過去死闘の跡が顔の皺に刻まれている、一心に番組を見つめて語らず、されど眼はうつろに見えて寂しい、誰とて訪れる人もない何か<姥捨て山>の如きホームの気が一瞬過った。
C)アマゾン移民者の夢
=黄金の珈琲実るとはるばると来るれどアマゾン深き密林
アマゾンには1929年から37年までに家族、単身合わせて2.100名が移住した植民地は医療、教育設備まで完備されたものであった、多くはコーヒーで一儲けて祖国に錦を飾る心積りであったが悪性風土病、適作物が見つからず現実はこの夢を完全に打ち砕いた。
=ジュート麻胡椒が潤す植民地まぶしく輝く緑の樹海に
適作物を探す努力は継続したその中で東南アジアから持ち帰った<胡椒>が戦後の高騰で植民地に多くの富を齎したそれにジュート栽培も大成功だった、俗に云う<胡椒御殿>なるものも出現して植民地は一時不夜城の賑わいを呈したと聞く。〔サンパウロ新聞〕
=棄民者に戻る国無くアマゾンに心の悔いを南十字星
往時の日本政府の移民政策は杜撰でアマゾン地区の詳細な事前調査せぬまま多くの移民、いや棄民を送り出した、この付けが棄てられた移民者に跳ね返った、全てを失い夢破れて梢越しに仰ぐ南十字星に安らぎを求めるも後悔先に立たず。
=夫と子を亡くしし女アマゾンの月の明かりに入水止めし
夫をマラリヤで亡くし子供には夭折された女が絶望の淵に立たされた結果自殺を試行する月夜の晩に川面に船を浮かべて死ぬ覚悟であった、ふと夜空を見ると阜サし難い綺麗な満月が浮かび何故か心が癒されて自殺を思い止まった。(サンパウロ新聞、生存する証言者の話)
以上
(作詞者注)歌の解説は皆さんによりよくご理解して頂くためです、本来和歌の解釈は各自が読んで自由に解釈あるいは理解するのが本来の趣旨ですので、あくまで参考として下さい。
小生としてはブラジル移民の勇猛果敢な<生きざま>を少しでも多くの日本の短歌愛好家に知って貰う趣旨より<ブラジルの移民に関して>多く詠むように心がけております、そのため時間の許す限り旧植民地訪問、先輩諸氏との会話又その筋の専門書に親しむ等移民史を遡及して同胞愛を深めております。
拙作ですが下記に一端を垣間見て下さい。
ー訪れし日本人墓地に聞く如し悲しみて泣く移民の声を(移民墓を訪ねた折り)
ー先駆者の拠にせしや丸太小屋の梁に掲げし教育勅語(移民資料館にて)
ー日章旗踏まぬは敵と囚われの身にぞなりしか先の大戦(踏絵ならぬ踏日章旗)
ー日本人のルーツ求めぬ同胞のあれば哀しむ老いたる我は(日系のブラジル化を嘆く)
序に「歳時記」を二つ;
ー狂ほしきサンバのリズム踊り子の溶ける如くに夜を踊れり
ー豊満な乳房揺さぶる身のこなし踊り子の肌汗に艶めく
国民文学海外の会員は北米(アトランタ)に一人と小生のみです、毎月投稿の常連は500名程度です、何方か短歌をお初めになるご希望の方は小生宛にご連絡ください国民文学者へのご紹介と委細をお知らせします、一寸色気の無い話になりすみませんでした。
それでは又....
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