HOME  HOME ExpoBrazil - Agaricus, herbs, propolis for health and beauty.  Nikkeybrasil  編集委員会  寄稿集目次  寄稿集目次  通信欄  通信欄  写真集  リンク集  準会員申込  em portugues




25年=交流協会生=コロニアと共に 渾身の力を込めて書かれた研修生南部サヤカ記者のニッケイ新聞連載記事。その2
日本ブラジル交流協会25期生48人の一人南部サヤカさんが思いを込めて書かれた連載は、彼女が帰国後も4回掲載され第16回で終了しました。研修生として1年間、仲間との生活を通してしか掴めない心の動き等、お世話になった方へのお礼の気持ちも素直に出ており色々ニッケイ新聞で自由に書かせて貰った若者としての特徴ある記事の中でもこの連載は特に力が入り研修の仕上げ的な思いを込めて書き残して帰られたのではないかと思います。青春の金字塔としての連載その2を掲載して置きます。使用ャtトの関係上、最後の2日分は、第3回目のその3掲載となります。
写真は、3月10日の「感謝の集い」で撮らせて貰った南部サヤカさんです。


25年=交流協会生コロニアと共に=OB編3=連載(8)=日本にいても心はいつも…太田さん「ブラジル音楽」へ
2006年3月3日(金)
 どうしようもなくブラジルに魅せられた=B一年の研修を終え、帰国後ブラジルに戻ってくる交流協会生は多い。「まだまだやり残したことがある」ともう一度、ブラジルに挑戦する人もいる。
 「成田空港に着いた瞬間、何だここは、と思って幻滅した」と話すのは太田千尋さん(29、二処鼕生、愛知県出身)。「売店のおやじの顔とか最悪!新宿を通った時なんか町の冷たさにすっごいショックを受けた」という。現在は、名古屋に本社を高ヲる電話会社で働き、ブラジル、南米へのプリペイドカード販売を担当する。
 日本全国の在日ブラジル人が相手。約五百件あるブラジル関係の店へ行き、全てポルトガル語で営業をする。仕事に関係のないところで通訳の仕事を頼まれることも。「こういう人たちは本当に日本人とかけ離れた生活をしている。でも、みんな日本人の友達が欲しいし、一緒に遊びに行きたいって言う」。
 毎日、ブラジル人相手に仕事をするが「心ここにあらず。そのうち日本に順応していくと思ったけど大間違い。ブラジルに戻りたい」。
 研修生時代は赤間学院で音楽教師をした。国立音楽大学でラテンパーカッションをしていたため、音楽の町サルバドールでの研修を希望していた。「結局サンパウロになったけど、私が一番研修先には恵まれていたと思う」。赤間学院でいつも仕事をともにしていた音楽教師の家でホームステイを経験した。「楽譜もあるし、ピアノもある。音楽でわからないことがあればすぐ聞けた。話題も合った」。
 サルバドールでブラジル人の恋人もできた。彼も音楽に詳しかった。帰国後、一年してからバイーア連邦大学で二年間、同州民俗音楽を学んだ。その間、政府観光局の合奏団で、音符の読み方、発生の仕方など音楽の指導をしながら演奏もしていた。
 この恋人とのことが日本のテレビ放送局でも放映された。『所ジョージの笑ってこらえて!』という番組の「世界の恋人たち」というコーナー。「いきなり電話がかかってきた。はじめ冗談かと思ったけど、恋人が出演する気満々だったから受けた」。全伯中六組のカップルの中から選考された。二週間かけて撮影。太田さんの日記をもとに番組がつくられた。「誰が私の連絡先を教えたのかと思ったけど、やっぱりOBだった。ニッパクの縦のつながりは凄いよ。何かといえば、OBが関係している」と笑う。
 「ニッパクで来てよかった。一人でふらっと来るよりああいう機会を与えてくれて、自分が思った以上の研修ができた」と言い切る太田さん。「また音楽をしにブラジルに行く。やりたいことは山のようにある。バイーアの大学で学んだ民俗音楽研究以上のことをもっとしたい」。日本にいながらも心は常に、ブラジルを向いている。
(つづく、南部サヤカ記者)

25年=交流協会生コロニアと共に=OB編4=連載(9)=自分にしかできない体験=石田さん=自信得て今の原動力に
2006年3月4日(土)
 すぐには再来伯できなくても、駐在員としてブラジルで働く協会生OBが多い。「帰ってからも七年間ブラジルへの想いを胸に抱いていた」という田辺裕之さん(32、序Z期生、静岡県出身)。帰国後の就職活動では「ブラジル、ブラジル…。とにかく駐在できるような会社の面接を受けた」。二〇〇三年から日本精工ブラジル駐在員として働いている。
 「ここが、いい制度だと思った。一年ってちょうど戻って来たい年数でしょ」と笑う。日伯毎日新聞社で研修をしていた。ポルトガル語学科生だったため、日本語ばかりの環境に初めは「帰りたい。カレンダーに一日ごとに×印をつける勢いだった」と思い出す。
 「でも今しかできないことをしようと思った。それが移民と話をすることだった」。もともと、いろんな人の話を聞くのが好き。 「日系社会にどっぷりはまってからは楽しくて仕方なかった。人との付き合いが初めは点だったけど、だんだん線になる」。
 この経験が、社会人になった今でも活きているという。今はブラジル人を使う立場。「ブラジル社会にどっぷり。点から線へ。今度はブラジル社会で自分のコミュニティを作る」。
 日本に帰ってからも、日系社会で知り合いになった人たちとの縁を切らしたことはない。ブラジルに戻ってきても同じ。「またみなさんと酒を飲み交わせるのが嬉しいです」。
     ◎
 大学酷烽ノ唐轤黷スポスターの「働きながら学ぶ」というフレーズ。「旅行者じゃない経験が積めると思った」。第藷期生として渡伯した石田博士さん(36、岡山県出身)は現在、朝日新聞社中南米支局長として、サンパウロを拠点に南米を飛び回る。「会社に入ってブラジルのことしかできませんとは言いたくなかった」。日本で諸N記者生活。去年、聖市に赴任した。
 「ブラジルで自分にしかできない体験をできたと思えた。自信がついた。これが今の原動力になっている」。サンベルナルド・ド・カンポ市役所で研修。ノーバ・エスペランサというファベーラで「市民として自覚を持ってもらうため」の改善事業活動をした。最後の一ヵ月は「日伯毎日新聞社」でも研修した。
 高校生の時からジャーナリズムに興味があった。立花隆著の『宇宙からの帰還』を読んだ。記者になれば「こんな岡山の片田舎でも月に行った人の気持ちまでも知れる」。心を打たれた。たまたま目にした交流協会のポスターを見て渡伯を決意。事前研修の五渚読書は「苦痛だった」。だが今は「五渚のリストを探し出して読みたいと思う。日本のこと知らないとまずい」。研修中、日系人との交流で自身を客観的に「日本人」と見るようになった。
 阪神大震災時。各地方から記者が駆けつけた。他のベテラン記者が遺体安置所で、誰でもできる名簿確認や死亡者確認をする中、石田さんは「被災した在日ブラジル人」について取材調査を希望。新米記者だったが、「何かを持っている人間は何かをやらせてもらえる可柏ォがあると思った」。ブラジルで考えていたことが活きていると実感した瞬間だった。
(つづく、南部サヤカ記者)

25年=交流協会生コロニアと共に=OB編5=連載(10)2006年3月7日(火)
 現在、サッカークラブのFC東京で強化担当をする第十七期生(一九九七年度)・服部健二さん(32、愛知県出身)。トップチーム全体の管理や統括業務を務める。「選手との契約や、高卒や大卒の新人選手のスカウト、外国人選手のスカウトが主。「少しだけ話せるポルトガル語を活かして、外国人選手のスタッフ、選手の渡航に関する手続きもする」。そのほか、彼らの家族の学校や、病院などの生活のケアーもする。
 研修先はアチバイアにある中沢スポーツセンターだった。「ポルトガル語は、使わざるを得ない状況にあったので、最低限の仕事に関する言葉は 覚えることが出来た」。同センターにサッカー留学をしていた日本の高校生三署lに、英語、数学などを教えていた。週末は、彼らの試合に付き添った。
 FC東京の監督はブラジル人のアレシャンドレ・タデウ・ガーロ。サントスFCで監督をしていた。ブラジル人選手も四人在籍。「ブラジル」と接する機会が仕事にある。二〇〇二年のワールドカップではブラジル代浮ノ帯同した。一番嬉しかったことは、との問いに「念願のクラブ初タイトル獲得となった二〇〇四年度ヤマザキナビスコカップでの優勝」と即答。
 「あの研修が今、大きく影響している」という服部さん。「チームにブラジル人がいるから、"仕事に役立っている"というからではなく、考え方と言うか、物質的に豊かな国で育ってきた自分が、本質的な"豊かさ"みたいなものを 一端ではありますが、感じることができた。自分の思考を変えたと思っています」。
(つづく、南部サヤカ記者)

25年=交流協会生コロニアと共に=25期編1=連載(11)=日本側送り出し一時凍結=OBら「存続」に立ち上がる
2006年3月8日(水)
 去年九月に行われた二曙ワ期生(二〇〇五年度)の中間研修。マナウス、ベレン、リオ・デ・ジャネイロなど各地方で研修する協会生も一堂に会し、それぞれの経験を発浮オた。ともに事前研修をこなし、同時期に渡伯。与えられた時間は同じ「一年間」。その分、研修に対して交流協会生ならではの「特別な想い」があるようだ。
 ある研修生の言葉。「どうしても、他の研修生と比べてしまう。自分よりもいい経験をしてるとか、ポルトガル語が上達してるとか……」。ほとんどの人がそのような感情を抱きつつも、九月までに得たことを話す。それに対して、ブラジル在住のOBが集まり、コメントをする。山内淳会長も参加し、ブラジル政治について講義をした。
      ◎
 研修生たちの気がかりは「派遣事業一時凍結」の報だった。藤本明司事務局長が事の流れを説明。バブル崩壊後、企業賛助会員が減少し、研修生が一人九叙怏~払う参加費に頼らざるをえない財政状態になり、参加者数を増やしつつ運営を続けてきた。それに伴い、引き受け先を探すブラジル側の負担は徐々に重くなり、査証の発給も条件が厳しくなるなど取り巻く環境は変化していた。
 OBらが四半世紀続いた制度を「存続させたい」と結束。協議した結果、二〇〇七年度からはブラジルに軸足を移し、次期二序Z期生を日本から受け入れることになった。藤本事務局長は「二曙ワ年が日系社会に与えた影響は大きい。絶対にやめたくない。OBらを信じてやっていこうと思う」と話した。
 二曙ワ期団長を務める平本明日美さん(23、神奈川県出身)は「驚いた。私たちの研修が始まったばかりだったし、これからの研修が例年通り行われるのか心配でした」との感想を話していた。
 日系社会でも波紋が広がった。サンパウロ人文科学研究所の宮尾進顧問は「ブラジルでの経験があるOBらがやっていくのは大変だろうが非常にいいこと。もっと実質的な交流を目指せるはず」。
 ポンペイア西村農工学校の西村俊治校長は協会に深い理解を寄せ、第一期生(一九八一年度)から現在まで序Z人の研修生を受け入れてきた。「事業中止の報を聞いたときは全く晴天の霹靂でした。残念でした」と話し「研修生個々を見てきて、一年後の成長ぶりを目の当たりにしてきた。言葉の壁、習慣の違いを乗り越えてこの制度の意義深さを感じて居ります」とのコメントを寄せた。
 山内会長は「二曙ワ年もたてば社会情勢も変化するし、研修生の体質も変わる。今まで同じ事をずっとやってきたから、新しい時代に適応させた制度にしようと模索する動きです」と説明し「今の交流協会では本当の意味での交流はできていない。OBもたくさん活躍している」と今後の交流協会へのあり方を示唆した。
 二曙ワ年の歴史。日系社会でも「残念だ」「続けて欲しい」などの声が上がり、いかに交流協会が認められてきたのかを実感するできごととなった。
(つづく、南部サヤカ記者)

25年=交流協会生コロニアと共に=25期編2=連載(12)=同じ思い共有してくれる存在=記録映像作家の岡村さんにとって
2006年3月9日(木)
 交流協会には、OB以外にもさまざまな人たちが協力している。「正直なところ、僕の興味は交流協会そのものに対してよりも研修生一人ひとりに対してでしょうね」。記録映像作家・岡村淳さんはそう話す。去年九月に行われた中間研修にコメンテーターとして出席。それ以外にも、協会側の要請で研修生のために上映会を開催した。
 協会と関わり始めたのは二所生時代(二〇〇〇年度)から。一九九七年に開催された立教大学ラテンアメリカ研究所主催の二日間にわたる上映会。交流協会、同研究所ともにOBである山口達郎事務局長(第四期生=一九八四年度)が来場していた。「それが協会との出会いです」。
 二年前の帰国報告会。ある研修生の言葉が忘れられない。ブラジルは自分を映す鏡。「しびれましたね。なるほど、そうだったんだと、僕自身が気づかせてもらった」。岡村さんのしていることは祖国日本にブラジルの感動を伝えること。「それが、お互いにより豊かに生きるきっかけになりうるという直感がある。同じ思いを共有してくれるだろう、そして僕とは別の方法でそれを伝えてくれるかもしれない若者が来てくれることがうれしいのです」。
 「大衆記録映像作家」として作品や阜サを日本に発信している。「それが、いま時の若者たちにまるで伝わらないようであれば、根本的に自分の存在理由も考え直さなければならない」。交流協会生は岡村さんにとって貴重なモニターでもある。
 「彼らの出会うブラジル像に、僕が教えてもらう。これからさまざまな人生を歩んでいくのだろうけど、一人ひとりがつかんだブラジルが、人生のなかでいい隠し味になってくれればいいと願っています」。
     ◎
 日本学生海外移住連盟で大学生時代に渡伯した金原正幸さん(41)。二〇〇一年に事務局運営委員になる以前から交流協会との関わりがある。「もう自分の団体みたいな感じ」。一九八五年にだるま塾の森脇礼之主宰のもとで研修。当時から協会生との付き合いがあった。
 YKK・ド・ブラジルの駐在員として勤務していた時に所生(一九九〇年度)の引受人となった。その後、二〇〇二年まで引き受けた。「中学校まではいろんな奴が集まるけど、高校、大学、社会に進むにつれて同じようなレベルの奴が集まってきてしまうもの」と言う金原さん。「交流協会は年も大学も関係ないからいろんな奴が集まる。それがおもしろい。そういう思想が好き」。
 第六期生(一九八六年度)として研修し、その後ブラジルで交流協会に携わっている神戸保さんとともに、YKK・ド・ブラジルを辞職したあと、カラオケ食堂「ポルケ・シン」も開業した。現在はアパレル関係の輸出コーディネーターとして事務所を高ヲる。(つづく、南部サヤカ記者)

25年=交流協会生コロニアと共に=25期編3=連載(13)=過酷な渡伯前の研修=毎年、協会方針に疑問持つ人も
2006年3月11日(土)
 五渚分の読書感想文を書き、百キロ歩かなければ、ブラジルに行けない!?交流協会の制度には、事前、事後研修があり、この「事前研修」のプログラムに研修候補生は、毎年頭を抱える。これだけではない。ブラジルでの個人研修テーマの作成、新聞記事の要約など、毎月必ず提出することが義務。遂行できなければ渡伯できない。
 七期生(一九九七年度)からは、大学にポスターを唐驍ネど積極的に広報活動を行い、八期生(九八年度)は三序Z人と増加。日本での事前合宿も行うようになった。これは渡伯までに東京で三回行われる。
 第二回合宿では名物「百キロハイク」が慣行。「全員完歩」を目標に東京から、神奈川県にかけ百キロという長距離をグループに分かれて約二庶l時間、夜通し歩き続ける。「何でここまでしてブラジルに……」「何がなんでもブラジルに行く」などの想いを、それぞれが体力、精神とも極限状態になる中で考える。また、自分やほかの研修生とも向き合う機会。中には、どうしても歩けずにリタイアしてしまう者もいる。処鼬詞續シという寒い時期。吐き気、足の痛さ、眠さなどと戦う。
 現在はなくなったが、りんご一個と水だけで四諸ェ時間過ごすというプログラムもあった。ビニールシート、ろうそく、小刀、ノート、鉛筆が支給され、それぞれ山中湖の野外で一人きりになりその時間を耐える。「みんな、洋服に食べ物とかいろんなもん隠し持っていくんだけど、全部事前にとられるんだよ」とOBたちは思い出して笑う。
 「この事前研修にどう取り組むかによってブラジルでの一年が変わってくる」。事前合宿での玉井義臣会長ら役員の講話で度々耳にする言葉だ。決められた本の中から五渚を選出し、感想文を書く。辞職して研修に参加する人も多く、彼らにとっては過酷な課題だ。
 本は、ブラジル関係の書籍ばかりではなく、日本文化、日本の歴史、禅、茶道、武士道など圧倒的に「日本」についての本が多い。「しっかりした日本人になって外国に行ってもらう」ということが目的だ。
 しかし、あとがきだけ読んで要領よくこなす者がほとんど。OBはもちろん、研修生が渡伯後感じることは「しっかり読んでおけばよかった」という後悔。ブラジルに来てはじめて「日本」について考え、意識し始める。
 あしなが育英会募金活動も義務の一つ。玉井会長が同会会長でもあるため、奨学生とともに募金を呼びかける。募金までの会議への出席、一ヵ月間の準備なども行わなければならない。全国各駅に立ち、大声で通行人に呼びかける。初めての経験に、始めは不満を抱いていた人も「感動した」と涙する者もいる。最後まで「義務として無理やりやらせる意味がわからない」と言う人も。
     ◎
 二〇〇五年度の応募者は百人を越えた。書類審査、面接で五諸ェ人が候補生に決定。「こんな協会だとは思わなかった」。事前研修の厳しさについていけず、署lが辞退した。残った研修生の中にも、「協会の思想」に共鳴できない者や納得のいかない者もいる。毎年、協会の方針に疑問を持つ人はいるものだ。
(つづく、南部サヤカ記者)

25年=交流協会生コロニアと共に=25期編4=連載(14)=支払う費用「90万円」=「高過ぎる」=「実費以下だ」の声
2006年3月14日(火)
 「九叙怏~」。この金額が一部から常に疑問視されてきた。渡伯するためには、九叙怏~を支払わなければならない。「どこにそんな費用がかかるんだ」「詐汲セ」とまでさえ言われている。しかし、一人あたり百万円近くかかっているのが現実だとの説明を聞く。その上、奨学金制度もあり、四叙怏~を貸し出している。それを利用する人が増えれば資金繰りが悪くなる。
 しかし、「疑い」があるにもかかわらず、説明はされるものの九叙怏~の使途詳細は明らかにされていない。今回調べてみたところ、主に航空運賃、国内研修費、研修生募集費、派遣先交渉交通費、機関紙、協会誌発行費や、青年代浮ニしてのブラジル人大学生の日本への派遣費用。それに加え、必ずかかる費用として、事務局員の人件費、協会の管理費、課題などの郵送代、通信費などがある。
 「今年は人数が増え、その分財政的に潤ったと思う人がいるけどそうではない」。藤本明司ブラジル事務局長は説明する。特に航空運賃とブラジル国内研修での宿泊費用。一年間の文化交流ビザを取得しているため、三百六藷オープンになり航空運賃が高くつく。ホテル代も同様。人数が増えたことで宿泊できる比較的安いホテルが少なくなるという問題もある。
 モンチアズール住民協会でボランティア活動をする安藤将(36)さん。毎年、同地でも協会生を受け入れていることから、よく事務局にも顔を出す。「世界中旅をしてきたけど、二曙ワ年という歴史のもとに、ここまでサポートできている協会はない」と断言。「旅行代理店みたいになっている留学システムが多いけど、交流協会は住む所も、研修できるところもある。研修補助費も支払われる。何から何まで面倒を見てくれる。逆に言えば利益をとってもいいくらいだと思う」。
 一年間を保障されたビザを取ることは難しい。「冷静な判断をすれば、九叙怏~で一年間日本で生活するのはなかなかできない。しかも、旅行じゃ経験できないことができる」と話し、「人間と人間がぶつかれるのは仕事か学校しかないんだから」と協会への熱い想いをみせる。
     ◎
 「旅行代理店ではない」。事前研修の講義で何度も耳にする言葉だ。「九叙怩熾・ってるんだから良くしてもらって当然と思ってる人が多い」と玉井会長は嘆く。二〇〇七年度からは、赤字からの脱却も課題の一つとされそうだ。
(つづく、南部サヤカ記者)



アクセス数 7925320 Copyright 2002-2004 私たちの40年!! All rights reserved
Desenvolvido e mantido por AbraOn.
pagina gerada em 0.0147 segundos.