カシアスの技術移住者3人にお話を伺いました。
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南大河州の移住50周年記念式典の取材に来られていたニッケイ新聞の堀江剛史記者を案内してポルトアレグレから130km離れたカシアスドスール市を訪問しました。州内第2の都市、カシアスの様子とそこに住む数少ない日系人の戦後技術移住者の高梨輝久さん、石田義之さん、津波古武雄さんの3人に高梨のお店ONSUIでお話を伺いカシアス名物のフィレ肉を手で薄く伸ばした肉にチーズとハムを乗せて鉄板で焼き秘伝のメ[スを掛けたバウルと呼ばれる肉料理にワインで昼食を摂りながら歓談しました。写真は、高梨さんのお店の前で撮らして頂いた3人です。左から高梨、石田、津波古さんです。 |
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高梨輝久さんは、現在65歳、神奈川県出身で早稲田大学在学中の1961年に第1回の技術移住者としてさんとす丸で着伯、サンパウロでTOLED、OLIVETE、GE等で5年間技術者として勤務、1966年にカシアスに移動、ROBERTO SHOWからINTRALに勤務、INTRAL副社長のMARIO MENESESさんの長女のSOLANGEさんと結婚された。INTRAL社を定年退職後、大阪ガスのハーマンの瞬間ガス湯沸かし機の輸入販売会社を開き南大河州の一手販売権を持ち盛業中。INTRAL勤務中から自宅の車庫を学校にして土曜日の午後日本語学校を開講20数年教えていたが今の仕事に変わってから時間的に継続が出来ずカシアスの大学に日本語講座を開設して貰い生徒を付けて継承して貰う。カシアスの日本人会の万年会長であり日本ブラジル交流協会のカシアスの地方理事としても研修生の引き受け等面倒を見て頂いている。
石田義之さん1946年生まれは、兵庫県の尼崎出身で1967年に波多野の訓練学校卒業の技術移住者として1967年に高梨さんの世話でカシアスの企業に就職、最後はTRAMONTINAで金型工として惜しまれて退職、現在は、INPS(ブラジル社会保障院)の年金の他、企業年金をTRAMONTINAから貰いながら息子さんの音響装置、特にスピカーの修理工場の仕事を気が向くときに手伝っているとのこと。
津波古武雄さんは、1949年生まれで1979年9月に飛行機移住者の最後の40名のお一人でVARIG便で移住されて来たそうですが、移民船での40数日の共同生活を経ての同船者意識を作り出すと言った経験はなく同機者と言った意識は全くなくサンパウロのコンゴニアス空港に着いて以来全く連絡は途絶えている。最初からカシアスに入りフォークリフトを生産するMADAL社に勤務していたが、現在ではINOVA ASSESSORIA INDUSTRIALと言うご自分の会社を経営し数社の工場管理、経営指導のお仕事をしておられる。名前からも分かるように沖縄出身です。
今回登場頂いた3人に共通する点は、日系人の少ないカシアスの町(人口45万人のイタリア移民が中心になり開けた町)で工業移住者として現地の工場に務められた事から当然の帰結と言うか3人とも奥様がブラジルの方で高梨さんの奥さんはポルトガル系、石田さんの奥さんは、ポーランド系、津波古さんの奥さんは、イタリア系のそれぞれ美人揃いと言うことです。現地社会への融合と言うか日本を忘れないで奥様方にはみそ汁を作らせ刺身を一緒に食する生活とのことで週末には仲間の家に集まりカラオケを楽しむとのこと。
今回、紹介出来なかった工場経営の村田さん、設計士の宝田さん(何れも工業移住者)、同船者の内田さん(商業)、近くの町で花作りをしておられる高橋さん、桜、紅葉の苗を育成し近くの町の街路樹形成のお仕事をしておられる上野さん等がカシアスの日本人会のメンバーとのことでポルトアレグレで行われる対抗カラオケ大会では団体の部で何時も上位に入賞しているとのことでその内、皆さんの集まりにも顔を出して見たいと思っています。
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