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【南大河州食糧集配センターで働く日本人】 サンパウロ新聞、山口貴史記者のレポート
南大河州日本人移民50周年祭の取材に来られたサンパウロ新聞の山口貴史記者が南日伯援護協会の近くにあるCEASARS(南大河州、食糧集配センター)に働く日本人を取材して紹介して呉れています。高木栄三さん(56)、山口八郎さん(65)、日置俊博さん(70)の3人です。時間が許せば南大河州の多くの戦後移住者を取材、記録に残して置いて欲しいのですが。
写真は、山口記者が撮られた高木さんの葉野菜が並ぶ販売現場の様子です。


【南大河州食糧集配センターで働く日本人】(上)
【ポルトアレグレ】ポルトアレグレ市内中心部から車で十五分、南伯最大の日系団体の南日伯援護協会から歩いて五分もしない場所にあるCEASARS(南大河州集配センター)には、約二十人足らずの日本人が活躍している。ここは、全国でも珍しい、卸売業者を通さず生産者が自らの手で販売を行う手法が採用されている。同州に住む日本人農家も、自慢の野菜を売るために早朝に野菜を収穫・準備し、午後から大型トラックにいっぱいの農作物を積んで出かける。CEASARSにいるそんな日本人たちの素顔を追いかけた。(山口貴史記者)

生産者が直接販売へ 苦労多いが食卓支える誇り
 一九七三年九月にプライア・デ・ベラスから市内の工業地区ともいえるアンシエタ区に移されたCEASARSは、四十二万平方メートルの広大な敷地に約千ブロックの店舗がひしめき合う青果倉庫が存在する。
 倉庫の中央付近で地元プロサッカーチームのインテルナショナルのポスターを見せながら気さくに仲間と話し合う高木栄三さん(五十六歳、北海道出身)は、十歳のときに南大河州リアナピメンテウに入植後、父親とともに野菜作りに励み、三十年間このCEASARSで野菜を売り続けている。
 「今大変だよ。野菜の値段の割に経費がかかるから。その割に野菜の価格は十年くらい変わらないんだからね」。
 販売している葉キャベツ束は一ダース約四レアル、ほうれんそう束一ダース約六レアルで、値段は長年据え置き。その上、堆肥・肥料代、人件費、ボックスの借賃など経費はかさむ。
 ボックスは大きさによって値段は異なるが、高木さんは二・五平方メートルの場所を月三百五十レアルで借りており、その値段は物価の上昇に合せて年々上げられているという。
 また、CEASARSに週三回、ポルトアレグレ中心部から東へ車で一時間ほど向かった農場のあるグラバタイから通っているため、車にかかる経費もばかにならない。
 一時期、経営に苦しみ九十年代には、埼玉県の車部品工場へ一年間、北海道へ一年間出稼ぎに出かけた時代もあったという。
 高木さんは、日本で小学校四年生まで、ブラジルへ移住後も同じく小学校四年生までの教育しか受けず、農業一本の生活を送ってきた。
 「言葉が両方中途半端。日本語の読み書きも難しい」。
 しかし、それに対して劣等感を抱いている様子はない。
 「日本人としての苦労はないよ。そんなこと、あまり気にしたらここじゃやっていけないから」と語る。
 CEASARSの仲間には、三十年来の付き合いという者も多い。十五年間続けてきた大好きなサッカーの話題で話は盛り上がる。
 「今年は、リベルタドーレス杯でインテルナショナルが優勝したから、日本へ行きたいと思っているけどね」と、十二月に開催されるトヨタカップの応援のために日本行きを希望しているが、現実は厳しい。
 「休みがないんだよね、野菜作りは」。(つづく)
 

【南大河州食糧集配センターで働く日本人】(下)
消費者を開拓する喜び 蔬菜栽培は実直な農家の特技
【ポルトアレグレ】CEASARS(南大河州集配センター)は活気に満ち溢れている。自慢の農産物を一杯に積めたダンボールやプラスチック、木箱がコンクリートの床にぎっしり並べられ、密集する青果店の間の狭い通路をカヘガドール(荷担ぎ屋)が、身長以上の野菜を積んで場内を所狭しと駆け回っている。
 そんなCEASARSを案内してくれたのは、ここで二十五年以上商売人として働いている山口八郎さん(六十五歳、北海道出身)。
 一九七九年に新車で購入したフォールドン社の大型トラックには、約六ヘクタールの農地で生産されたホウレンソウ、ルックラ、せりなどの葉野菜を積み、ここで商売に励んでいる。
 「CEASAには夕方に来たほうがいい。終わり頃には安くなる」。
 一ダース単位で販売されるCEASARSへの買い物客は、主に小スーパーやレストランの従業員で、時々主婦もやってくるとか。
 山口さんは、一九五六年に移住後、パラナ州、サンタカタリーナ州、バイーア州を渡り歩いてきた苦労人。二十七年前に南大河州で安住の地を得た。
 現住地のカノーアへ入植し、スプリンクラーが主流になる前から夏も野菜の水撒き作業を怠らないなど、生活向上のために努力してきた。
 「昔は、ブラジル人は雨の少ない時期にも水を与えなかったから、儲かったよ」。
 しかし、現在では「全体的に技術が上がり、生産過剰になって品物全部が安くなってしまった」と過去を回想しながら、現況を語る。
 それでも、「自分の口一つで得意先を見つける。仕事は楽しいですよ」と、生産者が自らの手で消費者に売る喜びを教えてくれた。
 
日置俊博さん(七十歳、北海道出身)は、一九五六年八月二十日、戦後初めて南大河州へ移住した『二十三人組』のうちの一人。
 山口さんとともに、『PRODUTOR(生産者)』と背中に書かれた水色のユニフォームを身につけCEASARSで働いている。今年で四十五年になる。
 日置さんの店先には、山口さんと同様葉野菜を中心に十数種類並べられている。
 「関心ないからいくら出してるか数えないよ」と豪快な一言が飛び出す。
 閉店間際に訪れると、一日の売上げの計算をしていた。時折接客し、仲間のところへおつりの両替を求める。
 二十歳のときに移住した日置さんのブラジルは、南大河州ビアモンテの日本人農家で雇われ生活することからスタートした。その後、スーパーマーケットで一年働き、共同経営に参加し、独立した。
 「ブラジルに来て良かったのか悪かったのか」。
 ブラジル行きは、日本で就職先が見つからず鹿児島県庁を訪れたことがきっかけだった。
 農業として独立し、農作物を生産してはCEASARSで売る仕事を四十五年間真面目に続けてきた。二人の娘に大学を卒業させ、家庭もしっかり守り続けてきた。
 「これしか能がないから」。
 あまり多くを語らない実直誠実な日置さんの背中には、ぎっしり移住者の縮図が込められている。(おわり、山口貴史記者)



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