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『消えた移住地を求めて』小笠原公衛 ブラジル日本移民百周年記念『人文研研究叢書』第3号
サンパウロ人文科学研究所の会員に登録させて頂いていますが、同人文研ではブラジル日本移民百周年記念事業の一つとして『人文研研究叢書』発行事業を続けています。今は廃刊してしまっていますが、総合農業雑誌『アグロ・ナッセンテ』に十九回に渡り連載された小笠原公衛氏の書かれた『消えた移住地を求めて』が纏めて発行されています。
写真は、その表紙ですが、紹介したい本の一冊でしたが時間がなくそのままになっていました。今回鹿児島県人会のHPを管理運営している臼井 洋明さんが丹念に本からその内容をデジタル化する仕事をしておられ本山省三理事長の書かれた『刊行の言葉』と序論の部分をHPに公開しておられこれをそのまま利用させて貰い本文とさせて頂きました。


刊行の言葉
 「人文研研究叢書」の第三号として、ここに「消えた移住地を求めて」を刊行することになった。
 本書の執筆者小笠原公衛氏は、1980年代、当初の研究員として在籍したが、その間、当時刊行されていた総合農業雑誌「アグロ・ナッセンテ」に、十九回にわたってこの「消えた移住地を求めて」を執筆連載した。
 日本移民の創設・開設になる「移住地」あるいは「植民地」と呼ばれたものは、1913年のイグアッペ、ジュケリーを嚆矢として、優に二千余を数えるほどもあったといわれる。いまなお健在のものもありはするが、とどめず、牧場や砂糖きび畑など、茫漠とした広がりの中に埋もれてしまっているのが現状である。
 日本移民百年の記録として、こうして消えていった集団地の歴史を丹念に拾い上げて、残していくことが望ましいが、現状においては、それはまったく不可能なことである。
 わずかな数であるが、幸いにしてこうして消えて行って移民集団地を取り上げた記録が小笠原氏の手により、ここに残されている。今となってはいまなお健在の集団地の陰には、こうして忘れられ、消えていった移住地・植民地が無数にあったことを、私たちはこの「消えた移住地」を通してわずかながら偲ぶことが可能である。そうした意味で本記録は移民史の一環として、貴重な意味あるものといえる。
 この連載ルポを一書にまとめておきたいという希望を、早くより当所はもっていたが、出帆費の捻出など思いかなわぬままにいたところ、この度同じ思いを持っておられたという園田昭憲氏から、経費負担のありがたい申し出があったところから、移民百周年記念叢書の一環として、これを上梓することとなったものである。
 本書の刊行にあたっては、園田氏を始め、執筆者の小笠原公衛氏、また元「アグロ・ナッセンテ」誌の編集員の伊藤信比古氏など、多くの方々の厚意にあずかるところ大であった。刊行にあたって、感謝申し上げる次第である。

二〇〇四年七月
サンパウロ人文科学研究所
理事長 本山 省三


序論
『消えた移住地を求めて』は、総合農業雑誌『アグロ・ナッセンテ』(隔月誌)に、1982年1.2月号(創刊号)から1985年11・12月号まで、シリーズとしして19回にわたって連載されたものである。(第八回農大村は、国立国会図書館の仕事で南米五ヶ所を資料収集にでかけたため、友人高山直己氏に執筆を依頼。また『番外編・マチュ・ピチュの邦人』は、史料収集の成果のひとつとして旅行後に纏めた)
同シリーズは「」雑誌という性格上、「論文」より「娯楽性」を帯びた「読物風」であることは否めない。しかしながら、読み物といっても創作であってはならず、表現は強調しても誇張に走らないように戒めた。また、対象とした移住地は、成立と消滅の形態においてなんらかの仮説ないしは推論を立て、それに沿って地域的あるいは類型的に選択、ないしはサンプリングとして抽出したものではない。
では、「消えた移住地」はどのようにして「求めた」か。二つの方法をとった。「聞き取り」と「文献」である。コロニア(日系社会)に精通した長老のアドバイスと、既存の出版物を史料として、その中から「これといったもの」を選び出した。いってみればアトランダムではあるが、この作業においてもおおまかな視点を置いた。現地を確認できること、関係者に接触できること、の二点である。現在と何らかの接点があることによって、より詳しい内容を掘り起こし、新しい事実を探り当てる可能性があると考えたからである。更に、興亡の過程で面白いエピソードなどがあれば尚よし、とした。いずれにしろ、編集者(雑誌社)の意向に沿った、すなわち読者を意識したものであることに変わりはない。さて、この場合の「移住地」の定義である。通常は「営農集団地」、即ち「日本人(日系人)が農業に従事しながら生活を営んでいる集団地」(独立農、借地農を問わず)を指すが、農業に限定しないで枠を広げ、「日本人(日系人)の集団地」とした。鉱山移民の「モーロベーリョ金山」が入っているのはそのためである。
「移住地」の名称も気になるところである。「消えた移住地」とはいいながらタイトルのみで、ここでは「移住地」の名を冠した移住地はひとつもない。マチュピチュと金山を除いた全17ヶ所の中で、「植民地」十ヶ所、「耕地」四ヶ所、「農場」「園」「村」がそれぞれ一ヶ所の計五通りの呼び方がある。おのおのポルトガル語のファゼンダ(耕地、農場)、コロニア(植民地)、シーチオ・シャーカラ(園)、ヴィーラ(村)に対応させたものであろうが、厳密に日本語訳にしたがっているようには思えない。むしろ規模や内容に拘泥せず、邦人の集団地であれば、耕地でも農場でも「植民地」で代表させているようにみえる。極端にいえば、ほとんどを同義語ととって、あとは口調や語呂、慣例など関係者の好みで命名してしまったのではないかとの印象すらある。例えば「農大」のつぎには、農場でも耕地でも植民地でもよさそうであるが、「村」がついている。確かにこの方が「おさまり」がいい。また、「ゴム」のあとには、おなじように「園」が他のことばより語呂的にしっくりする。
「移住地」と「植民地」は、意味の上でちがいを明らかにするのは困難である。イコールといっていよい。では、なぜ区別されているのか。戦前創設の集団地は「植民地」、戦後のそれが「移住地」という一般的な傾向がうかがわれる。もうひとつの傾向として、移民自体によって開設されたものが「植民地」、政府(日本)系ともいうべき公的機関が民間の資本を集めて創設したものが「移住地」を用いている。
政府系というか、公的機関の海外興業株式会社(海興)ブラジル拓殖株式会社(ブラ拓)が創設したいわゆる5大移住地がある。イグアッペ、アリアンサ(はじめは長野・鳥取・富山各県の海外協会によって開設されたが、後にブラ拓に移管)、バストス、チエテ、トレス・バーラス(アサイ)は、イグアッペ「植民地」のほかは「移住地」である戦後の事業団扱いも、一貫して「移住地」で、ごく初期に創設された(1913年)イグアッペはむしろ例外に近い。また地域差もみられる。アマゾンは、戦前・戦後、政府系・民間を問わず、「移住地」で統一されている。その意味で、海興が戦前に開いたサンタ・ローザ「植民地」珍しいと言わなければならない。
ことばの定義づけはこのくらいにして、番外編を除いた全18例を一覧表にしてみた。各移住地の「成立―発展―消滅」を追ったものである。成立と消滅のうち、成立の形態については、アンドウ・ゼンパチと斉藤広志がそれぞれつぎのように分類している。

アンドウ・ゼンパチ
A 政府関係の団体が建設
B 移民のリーダーが理想植民地を目指して建設
C 個人または土地会社が事業として売り出して建設

斉藤広志
A 計画植民型
B 任意集団型(イ)郷土一色(ロ)宗教(ハ)共通体験(同航海、同一耕地など(ニ)縁故)
C 官公営移住地

ここでは先達の分類法をあげるにとどめて、「消えた移住地」の「消えた」原因に焦点を定める。消滅の主な原因と思われるものは、次の通り。

1、外的要因
・ 第二次大戦―キロンボ、カカトゥ、水野、バラ・マンサ、サンタ・ローザ
・ 耕地売却―内藤、サンタリッタ
・ 退去命令―ベルテーラ
・ 地権問題―セラード
・ 自然条件―天候不順(キロンボ)、痩せ地(セラード)
・ 交通不便―キロンボ、サント・アントニオ
・ 誇大広告―セラード
・ 作物価格暴落―サンタリッタ

2、内的要因
・ 地力低下―東京、文化、水野、協和
・ 経験未熟―山形、サント・アントニオ、モーロベーリョ
・ 資金不足―水野、山形、サント・アントニオ
・ 和の乱れ―文化、農大村、サンタリッタ
・ 不作、病気―農大村、バラ・マンサ
・ 地権問題(不在地主)―文化

外的要因としては、第二次大戦(太平洋戦争)が最も影響が大きい。移住地を丸呑みするほどの最大級の荒波だったことがわかる。ブラジル人名義にすることでリキダソンを逃れた移住地もいくつかあるから、対処方法はあったのである。知恵と工夫、そして移住地を守ろうという意思と努力が必要だったのかもしれない。耕地の売却によって消滅した内藤耕地とサンタ・リッタ耕地は対照的である。自分たちのあずかり知らないところで取引された内藤に対し、サンタ・リッタは先行き不安と見た全員が、納得付くで売り払った。立地条件のちがいで泣かされたところもある。気候不順や痩せ地と知らされなかったりなどの自然的な要素と、誇大広告やあいまいな地権、交通不便など人為的な要素がさいごまで足を引っ張った。これに対し内的要因は、対応いかんでは消滅の危機を克服した可能性がなきにしもあらず、である。歴史に「もしも」は禁物であるが、それを承知で再検討してみたくなる。「消えていなかった」移住地と比較した場合、一層そのことが鮮明になる。リノーポリス植民地は耕作地としては恵まれなかったにも関わらず、鉄道が近くを通過していたおかげで生産物を大消費地リオに輸送することができた。同時に、電話という通信手段があったことで市場を見定め、経済作物を確保しかつ多角農に取り組んだ結果、消滅とは縁がなかった
また、半ば消えた状態が続いたあとで、かろうじて息を吹き返したのはリオ・フェーロ植民地である。当初の計画はことごとく誤算だった。植民地内を通過する予定の国道は外れ、地味豊かかと思った土地は強度の酸性土壌であった。雑作はおろか、主要作物にも極めて不適。本命のゴムだけはなんとか植たが、これも採液に十年以上を要すると知って、不在地主のまま放置されて年月が経過した。それが十数年後、天然ゴムの需要が追い風となり脚光を浴びることになった。再生を可能にしたのは、開発から管理運営を手がけてきた土地会社の存在である。存続に意地と責任と夢をかけた、地道な経営者の努力の賜物であろう。
移住地は二千ヶ所はあったといわれる。ここに取り上げたのはわずか18事例にすぎない。しかも、衰退の要因は錯綜して様々である。大方は一因のみで決定されるものではない。ましてこれをもって、他の多くの移住地の消滅原因のモデル(定型)となすには無理があろう。せめても旧時、南米ブラジルの地に離合集散した日本人(日系人)の足跡をなぞるよすがとなれば幸いである。




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