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のじぎく兵庫国体に招待された兵庫県人(連載5回)サンパウロ新聞福岡支局長吉永拓哉記者。
10月にのじぎく兵庫国体が実施されましたが私が高校生の時に行われて以来ですから50年振りでしょうか?1995年1月17日の阪神・淡路大震災より復興し力強く発展する新生兵庫を見て貰おうと南米3各国の兵庫県人62名を招待したとの嬉しいニュースです。
取材して呉れたのは、サンパウロ新聞で活躍しており諸事情が有り郷里福岡に戻り活発に日本よりサンパウロ新聞に記事を送り続けている吉永拓哉福岡支局長でお父上とはアマゾンのトメアスー移住地で1963年の新年を一緒に過ごした拓殖大学時代からの旧友であり、拓哉君も暫くポルトアレグレに住んだ事があり昨年取材に来られた時には我が家に一晩泊まって貰った事もある。日本からの新鮮な記事をこれからも届けて欲しいと思います。
写真は、連載第1回に掲載されていたサンパウロ新聞の写真をお借りしました。


のじぎく兵庫国体に招待された兵庫県人@ 南米から62人が参加 サンパウロ新聞WEBより。
《ブラジル勢はハッピでアピール》

 【神戸発】一九九五年に発生した阪神・淡路大震災では、被災地の人々を支援しようとコロニアの呼び掛けにより募金活動を展開、寄付金はブラジル全土において総額約八千四百万円に達した。あれから十一年が経過し、県民らの努力により神戸市を中心とする兵庫県はみごと復興を成し遂げた。今年、兵庫県(井戸敏三知事)では三度目となる第六十一回国民体育大会『のじぎく兵庫国体』が開催されることを機に、震災の際に温かい手を差し伸べたブラジル、アルゼンチン、パラグアイの南米兵庫県人会に感謝の意をこめて、再生した兵庫県を見てもらおうと県に招いた。(吉永拓哉福岡支局長)

 兵庫県から招待されたのは上原幸啓文協会長、酒井清一援協会長、松尾治県連会長、尾西貞夫ブラジル兵庫県人会会長、同県人会員・県人子弟およびパラナ、アルゼンチン、パラグアイ各兵庫県人会の総勢六十二人(自費参加も含む)。一行はのじぎく兵庫国体開幕前の九月二十八日に神戸入りした。

 港町神戸は日本移民を送り出したいわば『移民思い出の地』でもあり、南米一行のなかには数十年振りに再びこの地を踏んだ人もいて嬉しさを抑えきれないという様子だった。

 同国体開会式が行われる三十日、一行は会場となる神戸ユニバー記念競技場(同市須磨区)へと向かった。

 会場では国体スローガン「ありがとう・心から・ひょうごから」のプラカードがいたる所に掲げてあり大勢の人手で賑わっていた。

 ブラジル兵庫県人会は、持参した同県人会のハッピを着て特別席に着席、秋晴れのなかオープニングがはじまり、入場締切のあと、会場の大型スクリーンに南米一行の姿が映し出された。

 ナレーションは、遠く南米から応援に駆けつけた一行を歓迎し、二〇〇八年のブラジル日本移民百周年の宣伝をするなど三万四千人の入場者に広くアピールした。一行はのじぎく兵庫国体旗を振って声援に応えた。 

 式典前演技では、宝塚歌劇団宙組、高校生ら千三百人による華麗なデモンストレーションが繰り広げられ、観客席一同で「翼をください」を合唱した後、四十七都道府県選手団入場式がはじまった。一行は兵庫県の選手団が入場すると割れんばかりのエールを送った。

 この日は、天皇皇后両陛下もご臨席され、一行が座る特別席すぐ近くのロイヤルボックスからご観戦になられた。

 陛下は、大会に際し「今回の大会から、これまで別々に行われてきた夏季大会と秋季大会が統合され、一つの大会として開催されることになりました。新しい国民体育大会が、今後国民にとって、また開催地の人々にとって、より良いものとなっていくよう関係者の尽力に期待しています」とお言葉を述べられ、また、阪神・淡路大震災を支援してきた人々に感謝の気持ちをこめて国体を開催されることは極めて意義深いことと激励された。

 その後、炬火(きょか)入場・点火が行われ会場の歓喜がピークに達し、選手代表宣言を終えて幕を閉じた。

 この日を待ち焦がれていたという県連の松尾会長は、「すごい開会式だった。ブラジル日本移民百周年もこのような盛大な大会になるだろう。とても参考になった」と興奮しながら会場を見渡していた。

(つづく)

のじぎく兵庫国体に招待された兵庫県人A 国宝・白鷺城に感嘆
 《旧神戸移住センターなど県内視察》

 開会式を終えた翌十月一日は、県からの案内で兵庫県内を視察に回った。昨日とは打って変わりあいにくの雨模様となったものの、美しい日本の風景を満喫し、思い出の旧神戸移住センターを訪問するなど、南米一行にとって充実した一日となった。

 午前八時、ホテルから出た一行は大型バスに乗り込み、最初の目的地となる姫路城に向けて出発した。

 バスは、日本の標準時刻を刻む東経百三十五度線(明石市)を通過しておよそ一時間で姫路市に到着、市中心部には日本一の名城と言われる国宝姫路城が優雅に聳(そび)えており、一行の目を釘付けにした。

 同城は明治維新の際の取り壊しや、太平洋戦争での戦火を奇跡的に免れ、いまもなお原形をとどめた城として保全されており、また、城を上から見ると白鷺(しらさぎ)が羽を広げたように見えることから、別名『白鷺城』とも呼ばれている。

 一行は案内人の説明を受けながら城内を視察した。この城は、かの宮本武蔵妖怪退治伝説、怪談「お菊井戸」などの舞台にもなっており、時代劇「暴れん坊将軍」のロケ地としても使われている。

 五年振りに兵庫を訪れたという坂本アントニオこどものその園長は、「子供のころ父親から姫路城の話をよく聞いていた。今回はじめてお城に入り、日本の伝統建築物を見て歴史の奥深さを感じた」と嬉しそうに話していた。

 汗びっしょりになって天守閣まで登った後は、姫路市制百周年を記念して造られた好古園で本格的な日本料理を楽しみ、その足で次の目的地、明石海峡大橋へと向かった。

 途中、高速道路は事故のため日本名物“大渋滞”に遭遇して大幅に到着予定時刻を超過したものの、夕刻前までには神戸市垂水区舞子と淡路島の津名郡淡路町を結ぶ世界最長の吊橋(橋の長さ三九一一m)に到着した。

 同橋は、ライトアップが真珠を連ねたように美しいことから「パール・ブリッジ」の愛称でも親しまれている。バスガイドの話では、吊橋の総工事費用は一兆三千六百億円にのぼるという。この大金を一万円札で積み上げれば富士山(標高三七七六メートル)の三倍に達するそうで、話を聞いた一行も唖然としていた。

 さらに上原幸啓文協会長は、大学教授時代にパール・ブリッジの建設に携わっており、バスガイドよりも詳しく吊橋の説明をするなど一行を驚かせた。

 南米一行の中では最年少の田原谷口ラナさん(二十歳、サンパウロ在住)に日本での感想を聞いてみた。

 初来日だというラナさんは、「日本人は他人に対する心配りや、正確な時間で行動することなどとても感心することが多く勉強になる。ブラジルに帰れば、日本語をしっかりと学習してまたここに来たいです」とすっかり日本に魅了されていたようだ。

 バスは、震災が一番激しかった神戸市長田区を抜け、今日のメインとなる旧神戸移住センターに向かった。

 (つづく、吉永拓哉福岡支局長)

のじぎく兵庫国体に招待された兵庫県人会B 神戸移住センター訪問 サンパウロ新聞
 《国立海外日系人会館案に耳傾ける》

 兵庫県視察のメインとなった旧神戸移住センター(神戸市中央区)には午後五時に到着、南米一行の中にはかつてここに収容されていた人も多く、「懐かしいなあ」とあちこちから当時を偲ぶ声が聞こえた。

 同センター建物は、一九二八年に国立移民収容所(後に神戸移住センターと改称)として設置され、移住者が海外に発つ前に一週間から十日ほど滞在し、研修や移住の準備をしていた。移民船廃止のため閉鎖された七一年までにここから約二十五万人が希望を抱いて海外に雄飛している。

 建築後七十八年経ったいまも当時の姿のまま存在しており、日本で唯一残された海外移住の歴史を物語る建築物だといえよう。

 この建物は現在、芸術家集団CAPが神戸市の委託を受けて管理しており、一階東側には(財)日伯協会提供の移住資料室が整備されている。

 管理者の説明によると、最近では小中学生の課外授業としても資料室を利用しているそうで、地域住民にとっても掛け替えのない愛着ある建物として親しまれているという。

 今回、一行の案内役を務めたのは日伯協会の多田義治副理事長と同会員の中村輝志さん。

 同協会では、同センター建物の老朽化に伴い「一刻も早い保存への取り組みが必要」と訴えており、同センターをブラジル日本移民百周年が行われる二〇〇八年に合わせて『国立海外日系人会館(仮称)』として国が整備、保存するように働きかけている。

 〇二年には日伯協会を中心とする市民団体が海外日系人会館設立準備委員会を設け、実現に向けて活動している。

 多田副理事長は、一行を迎え「センターを国立海外日系人会館として保存するために署名活動を行っています。どうかご協力下さい」と呼び掛けていた。

 一行は、まず四階へと上がり南米移民の写真やブラジル物産の展示室を見学し、三階では芸術家たちのアトリエを見て回った。

 三〇三号室のアトリエには、コチア青年が書いた『俺は故郷を想う〜』からはじまる落書きが、半世紀の時を経ていまもなお残されていた。

 一行の中で元コチア青年だった鎌谷昭さん(六十八歳)は「コチア青年一期十回生の落書きだと思うが、いったい誰が書いたのだろう・・」と興味深げに見入っていた。 同センターを後にし、兵庫県視察最後の目的地となったメリケンパークに到着したころには、すっかり日が暮れていた。小雨がちらつく中、同パークのシンボルである神戸ポートタワーを背景に、神戸港移民船乗船記念碑まで足を運んだ。

 この記念碑は、神戸から出発しようとする移住家族を表した銅像で、市民や海外日系人らの協力により〇一年四月に建立されたもの。銅像の脇には、神戸港を出港する笠戸丸の姿も描かれている。

 訪れた一行もこれには心を打たれ、記念撮影をする人も多かった。

 日系二世の喜多山峰宏さん(三十歳)は「ボクの父も昔この地からブラジルに出発したと思えば、胸がジーンと熱くなります」と感動に浸っていた。(つづく、吉永拓哉福岡支局長)

のじぎく兵庫国体に招待された兵庫県人C 震災に遭遇した嶋岡エジナさん
《11年ぶりに現地を視察》

 「ゴ、ゴ、ゴ、ゴ・・」大地を揺るがすもの凄い地響きとともに、寝ていたベッドから振り落とされた―。

 いまから十一年まえの一九九五年一月十七日午前五時四十六分、突如として大都市神戸一帯を襲った阪神・淡路大震災では、死者六千四百三十四人、負傷者四万三千七百九十二人、全壊及び半壊に至っては二十四万九千百八十棟という戦後始まって以来の大規模な震災被害をもたらした。

 この大惨事を体験した日系人三世が南米一行の中に加わっていた。

 嶋岡明美エジナさん(三十五歳、旧姓・衣川)は震災当時、ブラジル兵庫県人会からの留学生で、神戸商科大学経営管理学部で学んでいた。

 震災発生時は、明石海峡大橋付近にある朝霧駅近くの留学生会館で就寝していた。大学の冬休みが終わった当日の朝で、登校を楽しみにしていた直後の出来事だった。

 揺れでベッドから転げ落ち、何が起こったのか分らぬままに一目散に会館の外に飛び出した。この時、会館で寝ていた他の留学生八人も無事に外に逃げ出すことができた。

 嶋岡さんは呆然と立ち尽くし、朝霧駅からトボトボと垂水区方面へと歩いた。ふと神戸方面を見渡したときに、空が真っ黒な煙に覆われているのを見て「これはただ事ではない」と察知して、慌てて留学生会館に引き返した。

 嶋岡さんはすぐさま自室へパスポートを取りに戻った後、思い立ったようにブラジルの両親に連絡を入れた。

 「地震があったみたいだけど、私は大丈夫だから」そう両親に伝えたものの、地震発生直後はまだブラジルに報が伝わっておらず、そのため両親は曖昧な返事をして電話を切ったのだという。

 その後、両親は神戸で起こった地震の大きさを知り、急いで娘に電話をかけ返したが、音信不通のまま三日が過ぎた。

 その頃、嶋岡さんは会館のガス管と水道管が破損したことから、会館に宿泊することを断念して親戚の家で世話になっていた。大学は閉鎖されており、町はいぜんとして救助作業が続き、勉強どころではなかった。

 再び両親との連絡が取れたとき、母親は「ブラジルに帰っておいで」と今にも泣きそうな声で娘に語りかけた。結局、嶋岡さんはその後も大学には通えず、恩師とも会うことなく三月になりブラジルに帰国している。

 現在、嶋岡さんはサンパウロで獣医を専業している夫と、五歳になる長男で平和な家庭を築いている。この度、兵庫県側からの招待を受けて十一年振りに神戸の地を訪れた。

 「三宮付近や学生時代の思い出の場所がすっかり変わってしまい、新しい建物がたくさん建っていた」と嬉しそうに語る嶋岡さん。これから母校の神戸商科大を訪問する予定で、復興した新しい神戸の町を存分に楽しんでいる様子だった。(つづく、吉永拓哉福岡支局長)

のじぎく兵庫国体に招待された兵庫県人・終 手厚いもてなしに感激 サンパウロ新聞
《移民百周年の支援体制整う》

 公式日程最終日には南米一行が宿泊する神戸市内のポートピア・ホテルで『ひょうご日系人セミナー2006』が開催され、南米からの招待者を含む約二百六十人が出席した。

 同セミナーは二十一世紀の日本と南米諸国との共生を築いていくことをテーマに行われ、田岡勲駐日パラグアイ特命全権大使、西村正国立海外日系人会館推進協議会会長、西村章次神戸大学副学長、落語家の桂小米朝さんの四氏が講演し、今後の国際関係のあり方について意見が述べられるなど、画期的なセミナーとなった(一部既報)。

 つづいて行われた井戸敏三兵庫県知事主催の『南米兵庫県人会歓迎レセプション』では、県関係者、日伯協会関係者、県内日系人ら約百十人が参加した。

 はじめに井戸知事が「のじぎく兵庫国体では、南米の皆さんがスクリーンに映し出され、観衆から大きな拍手で迎えられたのを見て、私も胸が熱くなった」と挨拶を述べ、知事自らが作った詩を披露『何回も 訪ね来たりし故郷が いまあらたに 思いで作る』と詠んだ。

 次に南米兵庫県人会を代表して尾西貞夫ブラジル同県人会長が、「井戸知事がはるか異国の私たちのことまで心にかけて頂き温情が有難い」と感謝の意を伝えたあと、阪神・淡路大震災から復興したことについては「県民の皆さまの努力の賜であり、県人の誇りを強く感じる」と胸を張って語った。

 乾杯は長田執兵庫県議会議長が音頭をとり、寿司や本場神戸牛のステーキなど豪華な食事とともに思い思いの会話に花を咲かせた。

 余興では、ソプラノ歌手の深川和美さんによる日本の歌、ブラジル兵庫県人会の兵庫音頭が披露され、和気藹々とした雰囲気のなか意義のある親善交流となった。

 歓迎レセプションには大手コーヒーメーカーUCC上島珈琲(株)社長で在神戸パラグアイ名誉総領事でもある上島達司氏も出席、この度、上島氏は日伯協会移住百周年委員会委員長に就任したことを明らかにした。

 上島氏から「ブラジル日本移民百周年では、何かお役に立ちたい」と頼もしい言葉を聞いた。

 西村正日伯協会理事長が中締めを行い、県側と県人会との親睦が深まったところで閉会した。これで南米兵庫県人会一行は神戸市での全日程を終え、翌三日には現地において無事解散した。

 今回、珍しくも上原文協会長、酒井援協会長、松尾県連会長のコロニア御三家代表が日本に集った。会長三氏は、九月二十六日から開催された第四十七回海外日系人大会に出席したあと、その足で神戸市入りしていた。 今回の神戸訪問について上原文協会長は「のじぎく兵庫国体には数千人のボランティアが参加したと聞いて感動した。兵庫県の皆さんが心を一つにして国体を成功に導いたのは、僕たち日系コロニアも見習わなければならない。移民百周年は、コロニアの真心を込めたものにしたいと改めて感じさせられました」と話し、思いで多い移民の故郷・神戸を後にした。(おわり、吉永拓哉福岡支局長)

 




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