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真砂 睦さんの「おいやんのブラジル便り」帰国後掲載分(その83以後)
『私たちの40年!!』MLでも真砂さんの「おいやんのブラジル便り」を楽しみにしているメンバーが多いですがJICAのシニアボランタリとしての3年間のサンパウロ勤務を終え8月に帰国しました。帰国と共にブラジル便りもお終いになるのかと思っていましたが、暫くは(ネタが尽きる迄?)は続くとの事でこの程、帰国の挨拶と共に戦後移住地としての最初のドラードスの松原植民地に付き詳細レポートを送って呉れました。松原植民地は、和歌山県出身の戦前移住者の松原安太郎さんが時の大統領ゼッリオ・ヴアルガスより取得した移民枠を基に開いた植民地で真砂さんの郷里和歌山県出身者が多い。今回取り上げておられる谷口史郎さんも和歌山県の梅の里南部の出身とのこと。
丸紅勤務当時ドラードスの近くの丸紅が所有していたMAGRISAの農場に何度か通いましたが、適当な写真がなく2001年にBONITOを訪問した時に訪ねた農場に有った大きな木を使用する事にしました。少しは、マットグロッソの感じが出ているでしょうか。


(その83)            2006年10月9日
サンパウロ州の北隣に南マットグロッソ州がある。パラグアイと国境を接している。ブラジル有数の穀倉地帯である。州の南部にドラードスという人口30万程の町があり、大豆・トウモロコシ・小麦などの穀物の集散地としてたいそう賑わっている。先日、そのドラードス市から20キロほどにある谷口史郎さんの農場を訪ねてきた。谷口さんは日高群清川村(現みなべ町)、奥様のみどりさんは西牟婁郡三栖村(現・田辺市)のご出身。谷口さんは13歳の時ご家族と一緒に渡伯、「松原植民地」に入植した。松原植民地は戦前移民の大農場主、和歌山県人・松原安太郎氏が、時の大統領ヴァルガス氏との親交を足場に、戦後初めての日本人移民枠4000家族の導入許可を取付け、開拓・造成された入植地である。戦後600万人をこす復員者をかかえ、食うや食わずの悲惨な状況にあった日本にとって、移民受入再開は朗報、政府は直ちに募集の推進を決めた。松原氏の出身地、和歌山県が間髪をいれず受けて立ち、県が移住斡旋にのりだした。当時清川村の村長をなさっていた谷口さんのお父さんが、お隣の岩代村(現・みなべ町)出身の松原氏の呼びかけに応じ、一家の移住を決意した。1953年7月、第一次22家族112名がサントス港に上陸、戦後移住が再開された。谷口さん一家は第二次船で1953年8月、ブラジルに着いた。松原植民地には、三次にわたって69家族が入植したが、そのうち和歌山県人が56家族を占めた。奥様のご一家は第一次船で入植、奥様と谷口さんは植民地でお知り合いになった。なにしろ松原植民地の入植者の大半が和歌山県出身者なので、さながら和歌山県人村のようで、それだけに結束が固かった。移民が上陸するサントス港から、入植地までおよそ1000キロ。奥地開拓・コーヒー積み出しの為に戦前に敷設されたノロエステ線と呼ばれる鉄道路線でまる5日かかった。最寄りの鉄道駅から更に車でまる1日、やっと開拓前線の村、ドラードスに着く。鉄道沿線には戦前の日本人入植地が連なっており、ノロエステは日本人による開拓の歴史を運ぶ鉄路である。大勢の戦前移民がまだ現役でがんばっていた。戦争で途絶えていた日本からの移民が10数年ぶりにやってくるというので、沿線の日本移民は沸き返った。戦時中はブラジル官憲から敵視され、祖国から孤立した苦しみを味わった日本人達にとって、新移民の到来はなににも勝る励みであったのであろう、移民列車が駅にとまると、近くの日本人が群がって「よく来た、よく来た」と熱狂的な歓迎ぶりであった。「新移民来る」というので、急遽日本人会を作り、新移民の歓迎を組織した入植地もあるという。沿線の駅に着くたびに、最寄りの入植地の日本人から、おにぎり・漬物・自家製のおまんじゅう・おもちなど、食べきれないほどの日本の食べ物が差し入れられたことを、谷口さんはつい昨日のことのように覚えておられる。日本を発って2ヶ月近い船旅の果ての、未知の新世界での生活に対する不安が、こうした先輩移民達の暖かい歓迎のおかげでどれほど取り除かれたことか。こうして沿線の先輩移民の歓迎に力づけられながら、サントスから1週間の長旅のすえ、谷口さん達松原移民は、いよいよ開発前線に入り込むことになる。開発前線、それは手つかずの密林にとだされた緑の異境である。(次号に続く)
(その84)           2006年10月11日
松原植民地はドラードス市から75キロ離れた所にある。入植地といっても、地図の上で位置がしるされているだけで、周囲一面深い原生林に覆われている。入植予定場所から20キロ程の所までは細い道があったが、それから先はうっそうたる密林である。道路作りから始めなくてはならなかった。道の行き止り地点近くの、飲み水が汲取れる場所に粗末な簡易宿舎があった。そこを足場に、15歳以上の男全員がナタを抱えて原始林に挑んでいった。チェンソーなどまだない時代である。一人で抱えきれないような太い木があちこちにあったが、ナタで切り倒すには時間と労力がかかりすぎるので伐採をせず、大木を迂回して、小型の運搬車が入れるほどの道を開いていった。女子供は宿舎にとどまり、食事作りなどの後方支援を担当した。谷口さんは当時まだ15歳になっていなかったが、すすんで道路作りに参加した。宿舎から作業現場まで水や食料を運ぶ役を受持った。数人の仲間と助け合って、重い水を抱えて毎日何キロもの細い開発道をぬって、宿舎と作業現場を往復した。数ヶ月にわたる原生林との苦闘のすえに、ようやく入植地点まで20キロの道がついた。1953年の9月頃であったという。道が通じたので、次は各家族の入植区画(ロッテ)の割振りである。1区画は間口125メートル、奥行き1000メートルと決められていた。くじびきで各家族の区画取りを決め、いよいよ各人が自分の土地の開拓に挑んでいった。最初はテント生活で、井戸を掘り飲み水を確保しなければならない。ところがこの地域の地下水が深く飲み水を手に入れるのは並大抵ではなかった。そのかたわら家を作りながら原生林を伐採し、山焼きをして耕地を作る。重労働が続いた。少しでも耕作場所ができると、まず陸稲やマンジョッカ(タロイモの一種)を植え食糧を確保し、鶏を放し飼いにする。当時原生林には野生の動物がたくさん居た。野豚や鹿、アンタ(バク)などを鉄砲でしとめて蛋白源にした。鉄砲はドラードス迄行けば簡単に手に入った。谷口さんもひとかどの鉄砲使いで、狩が得意であったそうな。こうして食糧の手だてができるようになると、次の年はいよいよコーヒーの植えつけである。故郷紀州を後にしてはるばるブラジルまでやってきたのは、誰しも「緑の黄金」コーヒーの大農園主になる夢を実現したいからであった。幸い多少のばらつきはあったが、松原植民地の土地は肥えていた。入植者同士の助け合いもあって、コーヒー栽培は順調に進んだ。1954年から植えつけにはいり、1958年から収穫が始まった。1963年には松原植民地のコーヒー樹が50万本に達したと記録されている。うっそうとした原生林がみごとなコーヒー園に変わった。開拓地の生活が軌道にのると、青少年への日本語教育とならんで、日本人会活動が盛んになった。なかでも野球は青少年に一番人気のあるスポーツであった。日本人会館の隣に広い野球場が作られた。谷口さんのお父さんの尽力で、当時和歌山県知事であった小野真二氏から優勝旗の寄贈を受けた。その優勝旗をかけて、15を超す南マットグロッソ州の日本人入植地チームが集う選手権大会が行われることになり、野球は益々盛んになった。しかし活気のある入植地生活の陰で、次の厳しい自然の試練が忍び寄っていた。霜である。(次号に続く)
(その85)           2006年10月15日
コーヒーが順調に生産を伸ばしている最中、1960年代中頃から松原植民地に霜が襲ってきた。霜は標高が低い所におりる。なだらかな起伏が続く耕地の中で、低地のコーヒー樹がやられる。各人の耕地の標高によって、入植者の明暗が分かれた。殆ど被害を受けない耕地がある一方で、全滅した入植者もでた。数年にわたって数度の霜害に襲われるに及んで、コーヒー栽培に見切りをつけ、他の入植地に移転する家族がでてきた。コーヒー相場の下落もあって、1970年頃には入植者69家族の半数ほどがコーヒーをあきらめて、松原植民地を出て行った。追い打ちをかけるように、1975年に未曾有の大霜がやってきた。低地も高地も総なめになった。一夜のうちにたち枯れたコーヒー樹を目にして、日本人達は呆然となった。入植者の多くは霜に追われるように植民地を去っていった。残った入植者はコーヒーをあきらめ、大豆やトウモロコシの穀物栽培に切りかえ再出発をはかったが、1980年代中頃には、松原植民地に残ったのは13家族となってしまった。谷口さん一家も、お父様とお兄様家族は300キロほど離れた新天地に居を移し、谷口さんはお隣の共栄植民地に土地を購入して、大豆・トウモロコシを主体とする穀物栽培を手がけた。その後の努力が実って、今では地平線の向うまで続く広大な農地で大型の刈り取り機を駆使して、大規模な穀物栽培を行っている。かたわらでトマト農園も手がけておられ、ドラードスのスーパーに一手に出荷している。一方、初期入植者は十数家族となってしまったが、松原植民地に残った入植者も、牧畜や大豆・トウモロコシ・小麦などの穀物の栽培で立派な成績をあげておられる。谷口さんはかって入植した松原植民地を案内してくれた。今の立派な舗装道路を車でとばせばほんの20分程の道のりであるが、ナタひとつで20キロの原生林を切り開いて道をつけ、家を建て、耕地を開墾するのがどれほど大変なことであったか。50年を経て、うっそうとした原生林が地平線まで延びる豊かな大豆農場や牧場に変わった今となっては、当時を忍ぶすべもない。ただひとつ、入植直後に建てられた日本人会館が広い運動場の隅にぽつんと残されていた。原生林伐採時の材木で作られたのであろうか、総板張りの小さな会館のあちこちにできた板の隙間が50年の歳月を物語っていた。耕地の開拓に明け暮れる入植地にあって、折にふれ入植仲間が集まって演芸会やのど自慢で腕をきそい、祖国への郷愁を癒したのであろう。時間を経てもこの会館は入植者達の心の故郷に違いない。だが今は訪れる人もなく、会館は静かに時の流れに身をまかせている。谷口さんの奥様の妹さんが松原植民地の那須さんに嫁いでおられるというのでお訪ねした。那須さんも奥様も西牟婁郡三栖村(現・田辺市)のご出身。那須さんは牧場と大豆・トウモロコシ農場を経営するかたわら、趣味半分で野菜や果物を有機栽培されておられる。筆者が田辺出身だというのでたいそう喜んで下さり、奥様お手製の美味しい野菜ケーキをごちそうになったうえに、帰りにはこれも自家製の干し柿をどっさり頂いた。「NHKの衛生放送が映るので日本が近くなりました。寂しくはありませんよ」とお元気であった。少人数になってしまったが、松原植民地にはまだ和歌山県人ががんばっているのである。(次号に続く)
(その86)           2006年10月17日
現在の谷口農場は、松原植民地から50キロ程ドラードス市寄りの共栄植民地にある。共栄植民地は松原移民の後に続いて入植した北海道の出身者が多い。谷口さんはコーヒー栽培に見切りをつけ、大豆やトウモロコシなどの大規模な穀物栽培を手がけることをめざして、
松原植民地を出て共栄植民地に耕地を購入された。穀物の集散地であるドラードス市から20キロと近い。一帯は広大な穀倉地帯である。大豆やトウモロコシ、小麦などは国際商品なので、シカゴの穀物取引所でたつ相場が世界の販売値となる。谷口さん達も、作った穀物を、その時のシカゴ相場をもとに、現地通貨であるヘアルに換算した価格で農協や穀物商社に販売する。だからブラジルの穀物生産者は、米ドル建てのシカゴ相場の変動と、現地通貨ヘアルと米ドルとの為替レートの変動という、2つの価格変動のリスクを負っている。私がお訪ねした時は丁度トウモロコシの刈り取りが終わる寸前で、夕刻日が沈むまで巨大な刈取り機がうなりをあげて、地平線の向こうまで行ったり来たり走り回り、刈り取りと同時に脱穀された膨大な量のトウモロコシの実が、刈取り機から穀物運搬専用トラックに太いホースを使って次々と荷積みされていた。今年の作柄は悪くなかったという。ところがこのところシカゴの相場が低迷しているうえに、現地通貨ヘアルの対米ドル相場が強く張り付いているために、生産者の手取りが二重に減ってしまい、「トウモロコシでは商売にならない。趣味半分で作っているトマトの方がよほど儲けになる」と谷口さんは苦笑いをされておられた。トウモロコシを刈り取った後は、大豆を植える。表土の流失を避け、肥料を節約するために、トウモロコシを刈り取ったあとは耕さず、残っている切りかぶの間にそのまま大豆の種を蒔く。「不耕起栽培」といって、ブラジルではこの方法が行き渡っているそうだ。「来年は大豆でひとやまあてたいねえ」。谷口さんは朗らかに笑った。国際商品の生産という、浮き沈みの激しい大規模農業経営を軌道に乗せる一方で、谷口さんご夫妻は日系子弟に対する日本語教育のために、大変な支援を続けておられる。奥様は長年共栄植民地の日本語学校で、若い2世や3世に日本語を教えてこられたし、ご主人はドラードスにある、南マットグロッソ州の拠点日本語学校の教務責任者として学校運営を支えておられる。「私達の仲間は、日本で学校教育が終了する前にこちらに来ました。こちらでも一家の生活を助けるために働くのが精一杯で、学校に通うどころではなかった。だから私達はいわば学校教育の狭間で成人したのです。もっと学校で勉強したかった、そういう思いはあります。せめて私達の子弟には、同じような残念な思いをさせたくない。そんな気持ちが強いので子弟教育にはできるだけ協力をしてきました。それに、なんといっても自分たちの子供や孫とは日本語で話をしたいのでね、日本語教育は大事です。日本語を勉強すれば、日本人の考え方も理解できるようになる。子供たちには日本語を忘れてもらいたくない。だから日本語を教える私達も真剣なんです。近頃は2歳になる孫娘に日本語を教えるのに一生懸命です。将来、孫とは日本語で話し合いたいのでね。孫は覚えが良くてね、もう簡単な日本語がわかるんですよ」ご夫妻は嬉しそうに話してくれた。(次号に続く)



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