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第26回県連ふるさと巡り ポルト・アレグレにおける交歓会の模様。ニッケイ新聞及びサンパウロ新聞掲載より。
第26回県連ふるさと巡りの一行がバス二台でポルトアレグレにやって来られた。世界遺産の一つに指定されているイエズス会による原住民のインヂオ教化部落のサンミゲル廃墟跡を見学500kmのバス旅、さぞお疲れと思っていましたが以外に旅慣れておられる皆さんはすこぶるお元気で交歓夕食会に参加されておられた。
同船者の小山 徳さんも最近では欠かさず参加しているとのことで場所を変えての再会、鹿児島県人会会長の天達 市雄団長とも歓談、特に丸紅コロラード社でコーヒーの国内販売をご一緒させて頂いていた和田 一男さんが23回目の参加とかで大ベテランとのことで旧交を暖めました。
その時に撮った写真を律儀に郵便で送って呉れましたのでそれを使って邦字新聞のポルトアレグレ関係を収録して置きます。



県連「ふるさと巡り」=パラグアイ・アルゼンチン・ブラジル=3カ国走破=連載(6)=ポルト・アレグレ=南日伯援護協会と交流=「4人に1人がデカセギ」
「やっぱりブラジルがいいわ」――。パラグアイからアルゼンチンに入り、イエズス会の教化部落跡を見学した一行は、九月二十六日午後六時、南大河州のサンミゲル市に到着。ホテルでカフェを飲む一行には、ほっとした表情がみえる。「家に帰ってきた」といった感じだ。
 翌日午前に日本二十六聖人の三人を祀るために建設されたサントアリオ・デ・カラオ教会を訪れた後、サン・ミゲル・ダス・ミッソンエス遺跡を見学。手作りの土産を購入し、東に約五百キロ離れた州都ポルト・アレグレへ向かった。
 市内のホテルに到着したのは午後八時。休む間もなく南日伯援護協会会員との夕食会に参加した。平日の夜ながら、二十人近い会員が温かく迎えてくれ、笑顔がこぼれる。
 ポルト・アレグレは南伯の中心都市。ヨーロッパ系の移民が多く、住宅もヨーロッパ調だ。人口約百三十万人。パトス湖を通じて、大西洋とも連絡する港町として発展した。
 同州への日本人入植は三六年、海外工業株式会社(海興)によりおこなわれている。十八の日系家族がこの地に入植したが、四十五年に国境百五十キロ以内での外国人土地所有を制限する法が発令されたため、同州初の邦人植民地は形成されなかった。
 戦後、五六年に星子直孝氏の呼び寄せによって、公募移民としては初となる二十三人の日本人青年が入植。今年八月に移住五十周年を迎え、盛大に式典が開かれた。
 六七年ごろには、同市から五十キロ離れたところにイボチ移住地ができた。国際協力事業団(JICA)の土地融資を受け、国内転住組の農業者が中心となって、二十六戸が集団で独立したのがはじまり。同会の鈴木貞男会長もここへ入植した。
 鈴木会長の話によれば、同会は南大河州とサンタ・カタリーナ州にある二十八の日系団体の連合会組織で、南伯では最も大きい。両州あわせての日系人口は約七千人と言われており、そのうち約二千人が日本国籍者。鹿児島や熊本県の出身者が多く、同県人会の支部もある。
 会の活動としては会員向けの広報機関紙を月に一度発行しているほかに、医師が休みとなる毎年十二月から一月にかけて、二十八の移住地を中心に巡回診療をおこなっている。総移動距離は毎回六千キロを越えるそうだ。
 この巡回診療に今年、日本政府の「草の根無償資金」の援助をうけて新しい巡回診療車が導入された。以前のバスは十年間使用し老朽化が目立っていたが、この診療車には「クーラーも付いて快適」と喜ぶ。
 鈴木会長も同診療班に毎年同行しており、普段会えない地方の会員との情報交換を大事にしている。最近は奥地の日系移住地を訪れると「家族間の関係が断絶している」という話を良く耳にするそうだ。
 というのも、同州では二世の大学進学率が高く、卒業後に都市部で就職する人が多いこと加えて、日系人の「四人に一人がデカセギ」にいっている状況が背景にあるからだ。「少しでもいい生活を子ども達にさせようと自分達が望んだことですが…」と話す言葉も少し寂しそうだ。「これも日系社会の現実ですね」。
 出稼ぎ帰りの人がブラジルの社会に適応できなくなって帰ってくることも多く「今後はこういう人たちのサポートも必要です」とも語っていた。
 十時ごろ夕食会は閉会。同会会員との別れ際、鈴木会長は「次の世代にこのコミュニティー(日系社会)をうまく継承していきたい」と話した。
 (つづく、池田泰久記者)

第26回県連ふるさと巡りG ポルト・アレグレ日伯文化協会
アルゼンチン側とブラジルのミッソンエス地方に残された教化村を見学した後、バスで四百九十一キロ、リオ・グランデ州を横断し、ポルト・アレグレに入ると高速道路やビルが立ち並び、大都会を思わせ、皆をほっとさせた。ホテル・サン・ラファエルに到着、午後九時から同ホテル内レストランでポルト・アレグレ日伯文化協会と交流会が開かれた。

 リオ・グランデ・ド・スール州はヨーロッパからの移住者が多くその内の一割をイタリア系が占めるといわれ、州都はポルト・アレグレ、人口百四十万人、うち日系人は六千人(日本人は千五百人)と少ない。主な日系企業では最近サクラしょう油で知られる中矢アリメントス社が同地にワイン工場を建てて、製造に当たっている。

 同協会は八月二十日にブランコ市長らが出席して盛大に日本移民五十周年を祝い、日伯議員連盟の河村建夫衆議が揮毫した『青雲の志』と書かれた石碑の除幕式を行ったばかり。五十年と短いのは、戦後外国人の土地所有を制限したためで、公募した最初の入植者は一九五六年同日に初めて二十三人の若者が戦後移住者として入った。

 二十七日は平日にもかかわらず鈴木貞男会長ほか約二十人が一行を迎えた。栗原ポルト・アレグレ南日伯援護協会会長が「リオ・グランデ州は日系の移住五十年を迎えています。ここでは日系人が少ないためか県人意識はあまりありません」と説明した。

 それに対して鹿児島県人会会長の天達団長は「ここには鹿児島県人会の支部があります」と紹介、支部の麻生さん夫妻と懐かしい再会を喜びあっていた。

 ポルト・アレグレにはビアモン移住地とイボチ移住地に合わせて約三十家族の鹿児島県出身者が入植しており、始めは忘年会や記念行事を合同に開催していたが、三十年前に鹿児島県人会支部(笹田教利部長)が設立された。ここの会員はすべて戦後移住者で、会館は持たないが、和気あいあいと活動を行っている。短い時間の交流会だったが、固い握手を交わしながら再会を誓い合って散会した。

 翌二十八日は早朝出発し、サンタ・カタリーナ州フロリア・ノポリス市から約四十五キロのサント・アマーロ・ダ・インペラトリスの温泉ホテルに午後八時到着、翌日午後まで自由行動で旅行の疲れを癒した。



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