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【数奇の運命辿る笠戸丸】サンパウロ新聞WEB版の記事より
ブラジル移民に関心を持っている者であれば必ず一度や二度は耳にし、目にした事のある【笠戸丸】について2008年の日本移民100周年記念事業の一環としてFDP記録映画製作所の野崎文男プロジューサー、左藤嘉一カメラマンで【笠戸丸移民物語】を製作中ですがその文書本とも云える好材料がサンパウロ新聞に掲載されていました。
『私たちの40年!!』HPでも笠戸丸関係の記事は、幾つか掲載していますがその一つには《ロシア船として日本軍に,日本船としてソ連軍に沈められたイギリス船》と数奇の運命を辿り最後は蟹工船として小樽を拠点に働き演歌「石狩挽歌」にもその名を残しています。小樽の水口さんのHPにも転載されそれを読まれた浜口さんのコメントも送って頂きましたので一緒に掲載して置きます。
写真は、笠戸丸の数少ない公式写真です。


数奇な運命辿る笠戸丸 ロシアの軍艦で誕生 日本海軍に拿捕され笠戸丸に サンパウロ新聞WEB版より。

「沖を通るは笠戸丸 わたしゃ涙で ニシン曇りの空を見る」

 演歌「石狩挽歌」が流れている。蟹工船をしていた日本水産所属の「笠戸丸」老齢期の出航姿である。    

 老骨に鞭を打って北洋漁業に従事していたが太平洋戦争末期には船という船は外洋に出ると米軍機の攻撃で次から次と沈没させられていた。

 昭和二十年七月二十七日(一九四五年)食糧確保と北方警備の兵隊を乗せ、小樽港を出発。千島で兵と武器を降し、八月二日、日露戦争で勝ち取った漁業権のあるカムチャッカ西海岸のウトカに到着。日魯漁業のサケ、マス工場にあった前年の生産物を積み、北海道に運ぶ役目であった。沖合い一二〇〇メートルまで接近、水深一八メートルの所で投錨、三〇〇トンのハシケ曳船用の発動機船を使って八日までに新巻缶詰二一〇〇缶、紅鮭・白鮭二三〇〇缶、鱒五五〇トン、筋子二五〇樽、六〇〇缶等を積荷した。八月九日朝、内地に帰るべくエンジンを蒸かしていた。するとソ連兵一個分隊が完全武装で乗船して来て、乗込員百五十五人を連行した。船側は無線室を封鎖されていて誰も知らなかったが実は前日八日ソ連は日本に宣戦布告をしていた。ボートが海岸に着き、全員が上陸するとソ連空軍飛行艇二機が襲来、停まっている笠戸丸目掛けて急降下爆撃をして撃沈させてしまった。「畜生」「ロスケの野郎」と叫ぶ悲痛な声が上がったが虜囚の身では為すすべもなかった。そして船底にいて連行されなかった作業員一人が積荷と共に海の藻屑となった。

 この報を聞いたスターリンは「日露戦争の仇を取った」とうなずいたといわれている。

 一九〇〇年、笠戸丸はPSNC社が貨客船として発注、英国WR造船所で建造、船の長さは一二一メートル、幅一五メートル、高さ八メートル、総重量六〇〇〇トンであり、ポトシ(ボリビア大鉱山の名前)と呼ばれた。進水後PSNC社よりロシヤ海軍が買取り、カザン号(タタール共和国の首都名)と改名される。

 日露戦争当時はロシヤのバルチック艦隊に属し、開戦前、商船に偽装して本国より旅順に兵士、要塞建設用物資等を送り、石炭、水補給のために一二回長崎港に寄航している。開戦(一九〇四年)と同時にロシヤ太平洋艦隊の病院船となり、旅順に留まり日本海海戦に参加する。結局、主力艦隊の道連れになり被弾したと云われているが、実際は浅瀬に乗り上げて座礁したらしく、同年十一月、病院船業務を解かれた。又、ジュネーブの国際赤十字社にも正式病院船としての登録がない。そういうわけで臨時病院船だったようだ。

国際法で病院船は拿捕出来ないが以上の理由で翌年、日本海軍が捕獲、浮揚し、呉軍港の所属となった。名前も原名のカザン号の発音を文字って「笠戸丸」と日本名にした。

 旧日本帝国海軍省はこの船を何に使うかと考え、二〇〇〇人収容できるベットがある故、陸軍に貸付け、満州(現在の中国東北地方)からの復員船にして大連〜広島・宇品間を一九〇五年十二月から翌年七月まで三井物産が委託して六回往復した。

 東洋汽船が海軍省より笠戸丸を借りて一九〇六年移民者をハワイに送り込み、次いでペルーに三回、計一六〇〇人を運んでいる。

 一九〇八年四月二十八日、笠戸丸はブラジル第一回移民七百九十一人(計画移民七百八十一人、自由移民十人)を乗せて神戸港を出発した。
       (つづく)

数奇な運命辿る笠戸丸 移民船、商船、病院船、蟹工船 一九一七年には貨物船でリオにも

日本では日露戦争後の経済不況と退役軍人の復員による帰農も余剰農民になり、都市に出ても近代工業化している工場には人々は付いていけず、就職難であった。

 欧州各国は近代化社会の余剰農民を海外に送り出していて、日本も遅ればせながらも移民先を確保しべきだと榎本武揚外務大臣は積極的にハワイ、カナダ、アメリカ、中米、南太平洋、フィリッピン、オーストラリア等に送り込んだ。

 現在、沖縄県人は移民県といわれ他県に比べ、ずば抜けて多く、成功者の率も高い。当時、県人は日本語が出来ないという理由で日本政府が移民許可を出さなかったが、當山久三氏の奔走により一八九九年、初めて島民二十六名をハワイ送り込みに成功させた。それ故、県では彼のことを移民の父と呼んでいる。

 ところが一九〇六年、ハワイ移民が増えて行ったが、低賃金の日本人が入り込んで来ると白人労働者の席を取ってしまうと、日露戦中は日本に肩を持ったアメリカで排日問題が起こり、北米より締め出された。

 一九〇六年、奴隷解放したばかりのブラジルではそれに代わる労働者として導入していたが、杉村濬(フカシ)駐ブラジル日本公使が赴任して直ぐ、大国ロシヤに勝った日本人を導入するようサンパウロ州政府に働きかけ成功させた。

 そこで一九〇七年 皇国殖民会社・水野龍(リョウ)社長とサンパウロ州政府との間で毎年一〇〇〇人、三年間で三〇〇〇人の移民者を入れる契約を結び、直ちに移民募集を行った。

この航海が終わると東洋汽船は海軍省に笠戸丸を返還している。

 一九〇九年、大阪商船は海軍省より貸下げという形で笠戸丸を借受け、豪華船に大改造し、台湾航路の定期船にした。そして同船を一九一二年に海軍省より買い取った。一九二七年まで就航が続いた。日清戦争で勝った日本は清国より台湾を譲られ、領有したので日本内地から官民が続々と渡航していた。神戸港より出航し、瀬戸内海をゆっくりと航行する旅客船は日本人の羨望の的だった。

 一九一七年(大正六年)二月 再びドル箱である南米移民航路に就く準備として、調査員山内社員を乗せ、貨物船としてリオデジャネイロサ港、ブエノスアイレス港に寄港している。その時は第一次世界大戦の真っ只中でドイツの潜水艦が各所で暴れまわっていて、船という船はすべからず、狙われていて笠戸丸も例外ではなく、香港で迷彩色に船体を塗り替え出発した。リオ、ブエノスアイレスの邦人は港に集まり、懐かしさと迷彩色の同船を不思議な目で眺めていた。これが第二回目の航海である。しかし再び移民船として活躍することはなかった。

 一九二六年(大正十五年)中国大陸では南軍(蒋介石将軍)と北軍(馮宋昌将軍)との内戦が起こり、南軍が勝ち、南京に入城した。

 一九二七年(昭和二年)勢いに乗じた南軍は国民革命軍を名を替え、中国の統一を図った。漢口の英国租界が中国民衆による反英暴動が起こり、その余波で国民軍は南京、上海の英、米、仏、伊、日の領事館、租界地に入り込み、略奪、暴行を行った。そのため邦人保護のため上海駐在の日本海軍陸戦隊が出動した。その時、笠戸丸は病院船に早変わりして揚子江を上り、漢口に赴き、怪我人を収容している。これが南京、漢口事件である。

 一九三〇年、冒頭の如く、日本初の鰯工船、蟹工船として活躍した。(おわり)(資料提供  宇佐美昇三、黒田公男、藤崎康夫の三氏)=FDP記録映画取材。


小樽にお住みの水口 忠さんのHP「北の風信」に下記掲載されそれに対し浜口 公生さんからのコメントが寄せられています。御本人の了解が得られましたので一緒に掲載して置きます。
水口さんのHP「北の風信」は、 http://homepage2.nifty.com/tamizu-otaru/

『笠戸丸』についてはこれまでどこかで見たり聞いたりした「船名」であろう。私も百科辞典やその他で調べたことがあり、小樽にも関連あると聞いていた。今回ブラジルのポルト・アレグレ在住の和田さんのHPに紹介されていた、「サンパウロ新聞WEB版」を読んで『笠戸丸』の詳細について知った。ここで転載することにした次第です。(注 水口)

カラオケ愛好時代、「石狩挽歌」は好きな歌の一つでした。
歌詞には小樽の地名が幾つか出てきますし、にしん漁の情景も謡われていてよく愛唱しました。
そのなかで、沖を通るは「笠戸丸」という歌詞がいつも気にかかっていました。たしか、南米への移民船であったとの記憶しかなかったので、なぜ当時小樽の沖を通ったのかという疑問でした。
この度、水口忠さんのホームページ(北の風信)を拝読し、その疑問が解けました。そして、「笠戸丸」の数奇な運命も知ることができました。

水口さん、ありがとうございます。
私は、終戦後博多港で、バルチック艦隊が対馬海峡目指して北上しているのをいち早く発見し、鎮海に待機する聯合艦隊に無線で「敵艦見ゆ」と知らせ、日本海海戦を大勝利に導いた「信濃丸」が、復員航海をしていたのを見たことがあります。
昔は船は大事に使い、長持ちさせたなあと思ったことがあります。
 ---- 浜口 公生(きみお)----

和田様       小樽の浜口です      
遠いブラジルからのメールありがとうございました。
貴ホームページから、「笠戸丸」について更なる話題や「アルゼンチナ丸」の話題を興味深く拝見しました。
戦前、初代のアルゼンチナ丸が就航したとき、たしか昭和12,13年頃かと思いますが、小学校高学年のとき、神戸港でレセプションがありました。家族で見に行った記憶があります。そのときに貰った
絵はがきを大切に持っていましたが、空襲で焼失していまいました。
戦後、同船は海軍に徴用され特設空母に改造されて大平洋戦争に参加、撃沈されたと聞いております。ブラジル移民は、昭和一桁代庶民の間に、子供の耳にも伝わる話題でした。
先の私の公開メールは、どうぞ御自由に転載結構です。
ただ、「敵艦見ゆ」のつぎに「と」の字が欠けてりますので、挿入のことよろしくお願いします。
 ---- 浜口 公生(きみお)----
e-mail k02h85@msb.biglobe.ne.jp




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