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【絵と私、思いつくまま】ホームページ「小さな画室」の藤木 亘さんの寄稿。
『私たちの40年!!』のメーリングリストの書き込みは、ブラジル関係のニュースが中心で面白みが少ないのですが、HSLN(ハッピーシニアライフネット)のMLでお知り合いに成り何時も新作の紹介等を送って頂く事になりました。「小さな画室」の数多くの絵の中で東京下町の走り描、山手線各駅の懐かしい絵等本当に目を楽しませて頂いており最近送って頂いた埼玉県の「花の丘公園」にあるゴッホの跳ね橋の絵がいたく気に入りこれを使って是非藤木さんを紹介する欄を設けたいとお願いした所、下記のオリジナルの原稿を書いて下さいました。日本にあるゴッホの跳ね橋の絵と共に紹介して置きます。風景からの語りかけが聞こえるようなこの絵をこよなく愛でる気持ちと共に藤木さん有難うを述べて置きます。


(油絵の具の匂い)
私が絵を描きたいと最初に思ったのは中学校二年の時でした。二年の担任の先生がたまたま図画の先生だったのです。まだ若い先生で、子供の我々と子供のように打ち興じてくれて、大半の生徒たちはとても親しみを以っていたものでした。
 或る時、数人の生徒が先生の家に遊びに行く事になり、ドカドカと先生の宅に押しかけました、当時先生は新婚間もなくであり、若い奥様も、我々子供達に親しく交わって下さった記憶が鮮明に残っています。先生の家に入れていただいて、私がまず驚いたのは油絵の絵の具の匂いでした、今まで嗅いだことのない匂い、そして50号程の油絵のキャンバス作品が立てかけてある絵描きのアトリエの空気でした、私が絵というものを強烈に意識した瞬間でした。
 そんな絵の世界を垣間見た14歳の私は憧れに似た衝動を覚えたのです。もともと絵を描く事は嫌いではなかった私は父に油絵の具を買ってくれるようにせがみましたが、その願いは直ぐには叶えられなかったのですが、父も当時俳画などをしていた事もあり本心は満更反対ではなかったのでしょう、間もなく12色の絵の具と4.5本の筆、油壺、ナイフ、等が入った絵の具箱、そして4号の紙で出来た簡易キャンバスが数枚届きました。
 先生がキャンバスに向かっている姿を見ていた私は真似事にでも描きたくなり、大胆にも絵の具のチューブを開けたのです、怖い物知らずとはこの事で、いまから思うとデッサンも碌にせず直接油を描きなぐった勇気には自分でも驚いています、そして初めての作品は雑誌の上に置いたリンゴとナイフの静物画でした。でもこの勇気と言うか大胆さが無ければ今の私が絵を描いていなかったと思います。
(右脳と銀行員)
家は小さな酒屋でした。兄が居ましたが商売が嫌いで船会社に勤めていました。親は私に家業を継いで欲しかったのでしょうが、終戦直後の大変な時代、小さな酒屋で生計を立てるのが精一杯、私に家業を継ぐ事は強制せず、安定した職業と思っていたのでしょう、学校が勧めた銀行へ就職させようとして学校にお願いをし、私は銀行員となったのです。
銀行員となったものの、数学が不得手だった私は、数字に追いかけられる世界、一円でも合わなければ許されない仕事、左脳ばかりが要求される味気の無い世界、こんな事では、自分が不幸だと思って絵を思い出しました、ファジーで感性、情緒を使う右脳を使えるのは絵の世界があるではないかと、暫く途絶えていた絵を描く事を思い出しました。今から思えばこれがまた銀行の仕事をする上でも無駄ではなかったと思っています。
(上島龍先生との出会い)
 本格的に絵を勉強したのは35歳ぐらいだったでしょうか、大阪住吉の美術研究所で創造美術協会の創立委員であった上島龍先生に出会ってからでした。暫くデッサンの勉強をして本格的に公募展への出品をし、創造美術協会の会員になる事が出来ました。
64歳ごろまで委員として多くの画友にも出会えたし、後進の指導を通じて多くのお弟子さんも出来ました。その後協会の仕事は若い人にバトンタッチし、持っていた絵画教室もそれぞれ後輩に引継ぎ、気楽な気持ちで初心に戻って絵を描きたいと画壇での意欲は無く自分の為に描きたいと思っています。
 美術学校を出た若い人に混じり研鑽し、石膏デッサンから始まり、構図、色彩、などの技術的な基本は勿論、「絵」の何たるかを学び直せた事は大変幸運だったと思っています、また絵描きとして一人前になりたいと、当時の私の意欲は今から思えば一つの時代だったのかなと懐かしい気持ちです。
(風景からの語りかけ)
私は風景画家だと思っています、風景を描く上での一つの考えを持っているつもりです。それは、描く技術よりも大事な事だと思っています、それは「風景からの語りかけ」を描くと言うことなのです。
 風景はどんな風景でもそれぞれ語りかけをしています、360度見える風景からどの部分を切り取って何を語りかけているかを良く聴くことから始まります、同じ風景でも、春夏秋冬、朝昼夕、晴天雨天曇天それぞれちがった語りかけをしています、その時の風はどんなだったか、どんな薫りがしていたか、そして人の気配は有るのか無いのか、そんな事が何かを語りかけている筈なのです、それを描きたいのです。
 見えた通り描いた絵が良い絵だとは限りません、見えた通りでなくてもその風景の語りかけを描ければいいのです、技術の問題ではないと思います、それが難しいのです、一生かかっても描けないことでしょう。
職人技術のように、何時でも何個でも同じ物が作れる(描ける)のは確かに凄い技術だと思います。でもそれは芸術ではないと思っています、ゴッホやルノワールのような巨匠でも同じ風景を何度も描いていますが、それぞれ全く違った作品になるのが芸術で、それぞれのその風景の語りかけが違っているからなのです。 ですから、写真から絵を描いてはいけないのです、写真の風景には語りかけが無いからなのです。
 生意気なことを書きましたが、私自身への戒めと思っています。
(コンピューターとの出会い)
 私が拙いホームページ「小さな画室」を公開して六年になりますが、六年前まではそんな事考えもしなかったのですが、六十歳を過ぎた頃「画集」を出してはどうか、と言う話があり、自分でも作品が人手に渡って手元に残らない残念さもあったものですから、出版社と相談したところ、画集と言うのはカラー写真ばかりが多くて製版が高くつき千部の出版だと四五百万かかると知り、それほどの絵描きでもない私の夢にしては高価すぎると諦めていました、そんな時友人の一人が既にホームページを作っていて、「だったらホームページを作ればいいじゃないか」と言われたのがキッカケでした、でもコンピーターの知識も全く無い者が「無理、無理」と言っていましたが、出始めた「ホームページビルダーが有るじゃないか」と無理矢理進められたのがそもそもの始まりでした。初めは何が何だか分からないまま、ああでもない、こうでもない、といじっていましたが三ヶ月ほどしたころ、何かコツを見つけたのか、少しずつ前に進むようになり、六ヶ月した頃、一応のサイトが出来ました。
 丁度総務省がIT時代を見据えて「インターネット博覧会(インパク)」なるものを催し、参加サイトの募集を新聞で見たものですから、冗談半分で応募しました、一ヶ月ほどそんな事を忘れていた頃、メールが入り、「採用するので所定の書類を送れ」と思っても居なかった知らせがありました、「小さな画室」を公開して二ヶ月目の事でした。
 そんな事で画集は出せなかったが、ホームページで私の愚作をお目にかけています。
(プロフィール)
1936年奈良市生まれ
現在さいたま市居住(1999.12から)
創造美術協会会員 暇絵描き
画歴は四十年という事にしておきます
賞は創造美術協会賞、ホルベイン賞、大和高田美術協会賞など
個展は六回しています グループ展は約五十展ほどになるでしょうか
趣味は昔ゴルフに懲りハンデ14までなりました。切手収集。囲碁は二段など
尚、文中の子供の頃の絵は
www.ne.jp/asahi/fjk/art/old-art.htmで、">http://www.ne.jp/asahi/fjk/art/old-art.htmで、
同じく文中の上島龍先生のページは
www.ne.jp/asahi/fjk/art/Uesima-ryu.htm">http://www.ne.jp/asahi/fjk/art/Uesima-ryu.htm
 私のプロフィールは
www.ne.jp/asahi/fjk/art/profile.htm">http://www.ne.jp/asahi/fjk/art/profile.htm
ご覧いただけます。ご参考まで。



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