果たせなかった夢を後輩に託して 仲間の移住支援して30年
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家庭の事情もあり福岡の郷里に戻りサンパウロ新聞の福岡支局長としてブラジル通の記者として密度の高いレポートを署名入りで書いておられる吉永拓哉記者の報告を楽しみにしている一人ですが、今回は厳父吉永正義さんの母校、拓殖大学海外移住研究会の海外に雄飛したOBを支援する『桂会』の会長として30年以上支援活動をしておられる井川 實さんを紹介する記事がサンパウロ新聞のWEB版に掲載されていましたのでお借りして収録しておきます。
吉永正義さんとは学生時代の1963年の正月にトメアス移住地で一時ご一緒に過ごした事がある旧知の間柄であり又拓哉記者は、ポルトアレグレ取材に来られた時に我が家に泊まって頂き語り合った事があり今後の日本からの発信記事に大いに期待している次第です。
写真もサンパウロ新聞からお借りした井川 實さんです。
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《東京、移研OBの井川實さん》
【東京発】学生時代、拓殖大学海外移住研究会(以下、移研という)に所属し、海外移住をしたのは約六十人に上るといわれているが、移研OBのなかには個人的な都合で海外移住の夢を果たせなかった人も少なくはない。だが、日本に留まったOBの有志たちは、今日に至るまで海外雄飛をしていった同胞を励ましつつ、移研独自のネットワークで他国に住むOBとの友好親善を行ってきた。東京都江戸川区在住の井川實さん(六十八歳)も学生の頃、家庭の事情でブラジル移住を断念した一人。彼に移研OBとしての活動を伺った。
《海外雄飛の心の拠点・桂会 恵まれぬ子にも暖かい手差し伸べる》
「南米移住を果たせなかったので移住した仲間を応援しているだけなんです。大した者ではありませんよ」――。こう謙虚な話し振りをする井川さんだが、同氏は拓殖大学の移研OBらで組織する桂会の会長を今年十月まで三十年間にわたり務めた同大の重鎮だ。
東京オリンピックが開幕された六〇年代は大卒者でも職が少なかったことで、「海外に出ればチャンスがある」と学生による海外移住が全盛期を迎えていた。井川さんが通った拓大でも「南米行かな男やない」といった風潮が蔓延していたという。
移研メンバーになった井川さんは一九六八年、大学四年生の時に日伯合併企業の調査員として渡伯した。一年がかりでウジミナス、ベレン、レシフェなど全伯を渡り歩いた。当時は、既に移研の先輩がたくさんブラジルに移住していた。日本では貧乏学生だった先輩らが、ブラジルで懸命に地盤を築き、異国の地で成功の道を歩んでいる姿を目の当たりにした。井川さんは、自身もブラジル移住を決意した。
帰国後、本格的にブラジル移住の準備をしていた矢先、不運にも母親が危篤状態に陥った。父親がいない井川さんは、母親の面倒を見なければならなくなり、泣く泣くブラジル移住を断念。その悔しさを胸に桂会二代目会長に就任した。
のちに時代の流れから移住を志す若者が激減したことで移研は自然消滅するが、桂会は世界中に散らばった移研OBらの心の拠り所として活動を続けてきた。
同会は南米各国ほか北米にも支部を構え総勢百七十人の会員を数える。つねに会員とは連携が取れる体制にしており、拓大世界大会などを通じて学生の頃に抱いた志や絆を保ち続けている。
ブラジルには六度訪れたという井川さん。四十歳ごろは銀座など都内に飲食店を四十店舗も経営していたが、桂会の活動に精を出すあまり自身の事業を大幅に縮小し、江戸川区に餃子店を一軒構えるのみになった。
現在、桂会では井川さんを筆頭に「マンタの会」を作っている。この会は、エクアドル共和国マンタ市に住む桂会会員の呼び掛けで、恵まれない子供たちに食料品を寄付するというもの。
さらに、同市名産のタグア・ボタン(タグア椰子が原料)を日本に製造輸入していることで、貧困に喘ぐ家庭の母親百人に仕事を与えている。
また、桂会ではブラジル日本移民百周年の企画も立てている。「できれば百周年には桂会主催の祝賀パーティーをサンパウロ市内でやりたい。移研の同胞を勇気づけ、後輩に喝を入れたいと思っています。なるべく日本から大勢連れて行きたい」と意気込んでいた。
井川さんら日本に居る移研OBの活躍ぶりは止まるところを知らないようだ。(吉永拓哉福岡支局長)
〔写真:移住者支援に尽力の井川實さん〕
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