照川丸47年振りの同船者会を実施 菅間さんのレポートより。
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47年前に北海道の室蘭の港から貨物船照川丸に意気揚々と乗り込んだ若者5人の内4名が昨年末東京のレストラン≪ざくろ≫に集い47年目の同船者会を実施した。当時照川丸の事務長をしておられた一柳さんも駆けつけられ5人の皆さんの話は弾んだ。これから毎年エクアドールにお住みの井上さんの帰国に合わせ参集することになった。
幹事役の菅間さんが当時の照川丸船長と撮った記念写真を古いアルバムから見つけ出して送って呉れました。このセピア色の写真6人の内、4人の方が今回東京で再会されました。写真は、左から井上、山崎、菅間、一柳、神谷の皆さんです。今後とも皆さんの会合が続き若き時代の夢を語り合う機会が増える事を願っています。
『私たちの40年!!』ML、BLOGへのコメント等を集めて2009年度最初の寄稿集として収録して置くことにしました。新年に入り新しい書き込みがあり照川丸の新しい写真を提供して下さった賀多井さんのご発言を中心に盛り上がりましので纏めてここに掲載して置くことにしました。
貴重な写真を2枚縦に合成してこの寄稿集に収録して置くことにしました。
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井川 實様
早速井上さんに連絡を取っていただいているようで
有難う御座います。昔の写真を添付しますので、井上さんに送ってあげてください。よろしく。
井上さんは日本に来るようなことがありますか。
和田君
井川さんのコメントに同感です。吉村君が貴君宅にお邪魔したときの話を聞きましたが、パソコンから顔が離れなかったといってました。
菅間
(写真説明)照川丸の船長との記念写真です。室蘭を出港して間もなくと思います。
井上さんは後列の中央、神谷は前列の
右、私菅間は前列左です。
菅間 さん
47年前の写真、時代物で歴史ですね。お便りと共にBLOGに掲載させて頂こうと思ったのですが、画像がWORD形式で貼り付けができません。お手数をかけますがJPEGの画像に変換して送ってもらえませんか。当方でも色々やってみましたが上手く変換できません。
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada/36964335.html
和田さん
古い写真を接写レンズを使って複写してみました。これにて如何でしょうか。
私達の40年のお陰で私の高校学校の友人からインターネットでお前の名前を見つけたという便りを受けたことがあります。写真でも掲載されるとどんな反響があるでしょうか。
井川さん
メール拝見しました。井上さんも驚くことでしょう。彼が来日されたら神谷君と旧交を暖めたいと思います。
菅間
菅間 さん
写真有難う御座います。47年も前に5人もの若者が貨物船で海外を目指しそれを助けてくれる船長さんがおられたのですね。人生への門出を背中を押して送り出して呉れた船長さんは、やはり皆さんには大きな存在なのでしょうね。井上さんが残りのお二人の消息をつかんでおられるかも知れませんね。
照川丸の同船者会が実現することを願っています。実現すればその様子を是非報告下さい。
菅間 五郎様
マンタ在住の井上順八です。 懐かしい方からのメールに驚き仰天です。 本日ブラジルからマンタに戻りました。
47年前 照川丸での船旅 決して忘れたことはありません。 今日その船上で撮った写真を拝見しました。 本当に懐かしいことです。
お蔭様で元気でおりますのでご休心下さい。 神谷様もお元気の様子 何よりです。 12月20日成田着にて一時帰国いたします。 一月ほど滞在します。 群馬にいる一緒に乗船した 山崎松恵氏を含め お会いすることが出来たら嬉しく存じます。 山崎氏も元気でおります。
在マンタ 井上 順八
井上 順八 様
ついに連絡取れましたね。嬉しい限りです。ブラジルにいる早稲田の仲間の和田君のお陰です。彼に感謝しましょう。
12月20日より一ヶ月も此方に滞在とあれば必ず会えますね。山崎さんとも会えるとは望外です。是非是非日取りを決めましょう。神谷君も吃驚しています。
私の電話は次の通りです。
住所は千葉市若葉区若松台3−12−12です。
以上取り急ぎの返事まで
和田さん、井川さん お世話になりました。
菅間
今後は頻繁に連絡しあいましょう。 宜しくお願い致します。
和田さん お約束の47年振りの同船者会の写真を添付して置きます。
写真は左より井上、山崎、菅間、一柳、神谷です。
話は尽きることなく又来年の再会を固く約して散会した次第です。
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada/37917891.html
47年振りの再会、さぞや話が弾んだでしょうね。また詳細知らせて下さい。
菅間 さん
BLOGに書き込んだコメントです。
写真有難う御座います。旅先では折角送って頂いた文章と写真がサイズが4メガ近いtifでしたので開くことが出来ませんでしたが今朝自宅に戻って上手く取り込むことが出来、tifからjpgに切り替えてサイズを落とし無事BLOGにも貼り付けることが出来ました。照川丸のお隣に大阪商船の大の字の煙突があるあるぜんちな丸を見ることが出来て大変嬉しく思いました。一柳さんにもお礼の気持ちをお伝え下さい。
菅間 さん
失礼しました。折角照川丸とあるぜんちな丸が並んだ貴重な写真と文を送って貰って置きながら旅先では添付写真が4メガ近くあるtifであける事が出来ませんでした。今朝自宅に帰って来てからダウンロードすると上手くメールが開きました。
文章と写真を下記BLOGに貼り付けて置きました。
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada/37947713.html#37947713
和田さん
1961年7月5日横浜大桟橋を出港した照川丸に乗り合わせた若者4人本日47年振りに再会を果たしました取り急ぎ報告します。我々4人(井上順八、山崎松恵、神谷光彦、菅間五郎)に加え、当時照川丸のパーサーをされていた一柳二郎氏に同席をお願いし、
合計5名が、日本橋の三越前にある{ざくろ」でしゃぶしゃぶを食べながら、47年振りとは思えぬ親密さをもって積る話に花を咲かせました。これも偏に「わたしたちの40年」のお陰です。
添付写真は一柳さんが苦労の末我々のために探しあてた照川丸の写真です。なんとその隣に勇姿を見せているのはアルゼンチナ丸これも縁ですね。
レストランで撮った写真を別メールで送りますので、前に船上で撮った若者の写真と見比べてください。
井上、山崎、菅間の三名は、本年が古希に当たり、
忘れ難き再会とはなりました。
菅間
2008.12,27
和田さん
我々の乗った照川丸と我々の写真が「私達の40年」の一ページを飾れましたのは実に光栄の至りです。
この再会の報告は4人を代表して私から和田さんの報告へするといって、まだまだ話し足りないままに散会しましたが、どのようにして照川丸に乗り合わせたか、金の工面はどうしたか、パスポートとヴィザはどのように取得したのかが初っ端の話題でした。夫々想像を絶する苦労の後に船に乗り込んだことを交々述懐しました。長くなるといけないと思い次の三首に全員の思いを込め、報告に変えたいと思います。
片時も忘れしことのなかりしぞ
あの日の船出照川の名よ
南米に住むこと夢見無謀にも
駆け巡りしかあの広大な地を
船旅の縁ぞよけれ一瞬に
四十七年の空白埋めり
厖大な夢を持った4名の内、井上さんだけが既に「私達の40年」で紹介されたとおりエクアドルはマンタの地でビジネスを成功させ
南米暮らしです。山崎さんは帰国後先見の目を持って警備保障のビジネスを立ち上げ、
神谷さんは三井物産アルゼンチンの駐在を早々に切り上げ有名企業を渡り歩き、今や千葉県の臍といいつつも広大な邸宅を構え晴耕雨読、そして最後の私菅間はメキシコ、英国、ドイツ、オランダと日立での14年間の海外勤務を終え、今や年金生活者に徹しています。最後になりましますが、私はいまだに最終移住地は南米と考えており、それは散骨の地がイグアスの滝だからです。
同船会に花を添えてくれました、一柳さんは、照川丸を降りて陸上勤務となり、メキシコ、
ペルー、パナマとこれまた中南米と深く関わるお仕事をされ、同船会の一員として名乗りを上げられました。一柳さんから我々に送られたメールもそちらに転送しておきます。
井上、山崎、菅間の三人にとっては今年は古希にあたりこの再会は劇的でした。
良い新年を迎えてください
2008.12.31
菅間 五郎
『私たちの40年!!』MLも色々な形で利用され役に立っているようですがその好例として47年前に室蘭から乗船した照川丸での南米への旅発ちをされた皆さんの年末の47年振りの再会劇は、感動ものですね。神谷さんと当時パーサー(事務長)として学生の皆さんをお世話された一柳さんからも下記温かいメールが届いています。
一柳様/井上様/山崎様
本日は47年ぶりに、大変お元気そうな皆様にお目にかかり感動しました。あの船旅が結んでくれた縁に感謝しております。まだまだおうかがいしたいこと、お話ししたいことは山ほどあります。次の機会を楽しみにしております。有り難うございました。皆様、お元気で。
神谷光彦ーM. Kamiya
菅間さん、井上さん、山崎さん、神谷さん
昨日の皆様との劇的な再会、本当に嬉しく、楽しいひと時でした。
皆さんと昔語りを交わしながら、往時のことが次々と走馬灯のように脳裏に
蘇えり、胸が熱くなる思いがしました。多くの若者が海外に夢を馳せた時代、初めて見た国、接した人々、多感な青年だった我々にとっては生涯忘れられない体験でした。
人生は一期一会の繰り返しですが、半世紀近い時を経てこのような再会シーンに巡りあえるとは予想もしませんでした。この場を設えて下さった菅間さんに心から感謝します。皆さんがそれぞれの道でご活躍されてこられたことを知り、嬉しいかぎりです。あの照川丸はとうの昔にスクラップと化してしまいましたが、私達の縁としてその姿は消え去ることはないでしょう。
朝は滅法寒い日でしたが、帰途はさほど寒さを感じませんでした。きっと、
皆さんとの再会で心が暖まったせいだと思います。
また、ぜひお会いしましょう。井上さん、エクアドルでの益々のご活躍をお祈りしています。
良い年をお迎えください。
一柳二郎
菅間 さん
47年振りの感激の再会の様子、得意の短歌に寄せての説明有難う御座います。美味しいものを突きながらビールで乾杯後は熱燗の日本酒でしょうか。話が地球の反対側まで伝わって来そうです。
『私たちの40年!!』寄稿集には、サンパウロ新聞の井上さんの記事を掲載しておりますが、菅間先輩、神谷先輩の書かれた寄稿文もちゃんと紹介しておりますよ。山崎さん、一柳さんにも何か書いて頂けるようにお願いして置いて下さい。
2009年も皆さんの多幸な年と成るようにお祈りしております。
ブラジルではまだ10時間近く大晦日が続きますが、日本時間に合わせてお昼は年越し蕎麦を頂きました。夜も日本時間に合わせて御雑煮でも頂こうかと思っています。サンパウロのカンピーナスで作っている東山酒造の東麒麟で御屠蘇を今年は女房と二人だけで交わすことに成りそうです。
照川丸47年振りの同船者会を実施 菅間さんのレポートより。
http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=1335
47年前に北海道の室蘭の港から貨物船照川丸に意気揚々と乗り込んだ若者5人の内4名が昨年末東京のレストラン≪ざくろ≫に集い47年目の同船者会を実施した。当時照川丸の事務長をしておられた一柳さんも駆けつけられ5人の皆さんの話は弾んだ。これから毎年エクアドールにお住みの井上さんの帰国に合わせ参集することになった。
幹事役の菅間さんが当時の照川丸船長と撮った記念写真を古いアルバムから見つけ出して送って呉れました。このセピア色の写真6人の内、4人の方が今回東京で再会されました。写真は、左から井上、山崎、菅間、一柳、神谷の皆さんです。今後とも皆さんの会合が続き若き時代の夢を語り合う機会が増える事を願っています。
『私たちの40年!!』ML、BLOGへのコメント等を集めて2009年度最初の寄稿集として収録して置くことにしました。
貴重な写真を2枚縦に合成してこの寄稿集に収録して置くことにしました。
賀多井様
我々の照川丸同船者の再会のことが賀多井さんのお目に留ったのは嬉しい限りです。照川丸の写真も有難う御座いました。
賀多井さん、私はブエノスより帰国の際移民船の蚕だなの三等先客でしたので、照川丸では一等船客の気分を味わったと、これまで友人達に触れ回っています。
お礼に当時の私の日記の中の一部を転記します。
7月9日
イルカを見る。船長、機関長、事務長と会食。料理は伊勢えび、鯵、豚 美味し。 デザートにスイカ。
7月14日
日付変更線を越える。再び船長との会食。
鍋焼きうどん、おもち、おでん等々なんでもありでとにかく極楽である。
一柳さんはご存知ですか。
菅間 五郎
菅間 五郎様
照川丸の写真を喜んで下さり、嬉しい限りです。
そうです、そうですとも。先の便でも書きましたが、貨物船での船客は、一等船客扱いでしたから、船長、機関長、事務長、他乗組員一同らが、親切に応対をされた筈です。私が乗船していた貨物船でも、船客の方には同様の扱いで接しておりましたので、菅間さん同様に大変喜ばれて、船旅を楽しまれた筈です。
予断ながら、女性が稀に乗船された事がありますが、一人の女性が乗っていると言うだけで、コロッと船の中、乗組員一同の雰囲気は、潤い和やかになった事を憶えております。
一柳さんは、残念ながら一緒に乗船した事はありませんが、名前は存知ております。当時川崎汽船は中南米の西岸航路に多くの船が就航しており、外大の西語科を卒業された方が、事務長として乗船されておりまして、のちには陸員に戻られていたようです。一柳さんも、そのような経歴だったと思います。ブログにありましたように、メキシコ、ペルー等の駐在員で活躍された事も承知しています。
面識はありませんが、私の懇意にさせて貰っている、同じく元川崎汽船の船長で、横浜に住まわれている方は、よくご存知で、毎年東京のメキシコ料理店で、会合を持っておられる様です。私も近くなら参加したいのですが、私は岡山に住んでいます関係で、ちょっと遠過ぎるのを残念に思っています。
そのキャプテンに、照川丸に纏わる、一柳さんの事を伝え、一緒に撮られた写真も紹介しました。
新年早々に、またこの『私たちの40年!!』を通じて、輪が広がったのを嬉しく思っています。和田さんにお礼を申し上げたいと思っております。和田さん、ありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。 賀多井
あや子:賀多井さん 始めまして オランダのあや子です。
私は35年ぐらい前に東京の大手町の川崎汽船に勤めていたことがあります。本社は神戸でしたが、コンピューター室を東京に移すことになり、男性は転勤で東京に来ましたが、女性は東京で採用され入社したしだいです。
当時私の上司で 高橋一郎 さんという一ツ橋大学をでた人がいたのですが、今居れば65歳ぐらいになるとおもうのですが、賀多井さんご存知ではありませんか。
川崎汽船ときいてなつかしく、ご存知であれば一言メールを送りたいと思ったしだいです。
賀多井様
早速のご返事有難う御座います。
先のメールのあとで一柳さんとも電話で話しをし、賀多井さんのメールを一柳さんに送りますと約束したところでした。
和田さん
驚いたことに井上さんほんの短い間でしたが、私のいた日立に勤務していたことがわかり、
その当時の会社の先輩を呼び出して横浜の中華街で食事をするという、47年振りの再会には余話が生まれました。また、賀多井さんのメールにもあるとおり、K−Line でのつながりも生まれそうです。
菅間
菅間様
一柳さんに、私のメールの紹介ありがとうございました。
先の照川丸のデッキチェアで、一緒に撮られた写真についてですが、キャプテンはどなたでしたでしょうか? 既にお亡くなりになったと言う事ですが、同じ船に乗り合 わせた事は無い事だけは確かですが、何処かでお会いした事があるような、ないような気がして、お名前を知りたいのです。
また、菅間さん達が、室蘭を出発されて太平洋を横断された事は判りますが、もし差し支えなければ、出港年月日と、何処の港までこの船で行かれたのでしょうか?
余談ながら、当時の中南米西岸定期航路は次の通りでした。内地を出たあと、シアトル〜
バンクーバー〜サンフランシスコ〜ロングビーチ〜マンサニーヨ or マザトラン(メキシコ)〜アカプルコ(メキシコ)〜サンホセ(グアテマラ)〜サンサルバドル(エルサルバドル)〜コリント(ニカラグア)〜プンタレナス(コスタリカ)〜ブエナベンツラ(コロンビア)〜グアヤキル(エクアドル)〜チンボテ(ペルー)〜カヤオ(ペルー)〜アリカ(ペルー=ここでボリビア国向けの貨物を荷揚げ)〜イキケ(チリ)〜アントファガスタ(チリ)〜コキンボ(チリ)〜バルパライソ(チリ)=往航の最終港 がおおまかの寄港地でした。
復航は、往航よりも寄港地は少なくなりますが、チリ硝石、銅鉱石、棉花などを満載して帰港しておりました。
朝入港して、貨物の量にも因りますが、日中の荷役(にやく)夜出港、翌朝次の港に入港を繰り返し、乗組員はかなりハードなスケジュールの連続でしたが、そこはそれ、船乗りならではの、楽しい想い出をそれぞれの方が沢山お持ちであろうと勝手に想像しています。
一航海は(内地を出て、内地に帰港するまで)大体、3ヶ月から4ヶ月を費やしていたと思います。
現在のような、コンテナー船や、専用船ではなく、在来船と呼ばれるこの種の貨物船は、当時全盛で、ロマンがあったように思えます。乗組員も 40〜45人でした。今でこそ車にでもGPSが装備されていて、現在位置を即刻知る事が出来ますが、当時は六分儀で太陽、星を観測して、船の位置を計算して、航海を続け、目的港に間違いなく計算通りに着いたものでした。当然と言えば、当然ですが。
私の初乗船は昭和31年(1956年)でした。遠い昔の話です。歳を取ると無性に昔の事が懐かしく思い出され、ついつい駄文を弄してしまいました。
和田様
『私たちの40年!!』にそぐわぬ投稿となりましたが、お許し戴きたくお願い致します。
和田さんのご依頼の、移民船、貨客船の写真をと言う事でしが、私の持っているものは、川崎汽船の在来船(照川丸のような貨物船)が主なものです。旧大阪商船の当時の船の写真集(絵葉書)のHPがあるのを知っていますが、それでよろしければ、ご紹介しますが、如何でしょうか?
賀多井様
私の日記によれば正確には横浜出港が1961.7.5です。一日出港が五日になりました。
室蘭出港後最初の寄港地はシスコ、それからロングビーチにも寄りました。それからアカプルコへ行き、その後中米ではサンホセ、サンサルバドル、コリント、プンタアレナスに寄り、二人はブエナベントゥラで降り、あとの二人はグアヤキルまで行きました。35日間の船旅でした。
アメリカ、メキシコ、中米の港で必ず下船し遊びまくりました。多少スペイン語には自信がありましたので、船の方がハラハラするほど遠くまで出かけました。
船長の名は大西さんです。一柳さんによると2-3年程前にお亡くなりになったそうです。
再会するときに出来れば船長にもご同席をと願っておりました。
次回会うときは機関長と船医さんに同席をお願いしようではないかと言う話になっております。
菅間
賀多井 さん
賀多井さんが書かれている船の情報は、『私たちの40年!!』寄稿周の大事な部分に当たりあるぜんちな丸(移住船関係)の話題という欄を設けており賀多井さんを紹介して下さった高根健次郎さんの寄稿等を掲載しております。
http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biogcat.php?cod=5
上記の中に『1962年、あるぜんちな丸第12次航帰路パナマ運河の太平洋側のバルボア港沖の勇姿。』として賀多井さんに送って頂いた船も掲載しております。
http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=987
どんどん当時の思い出をお寄せ下さい。
和田様 早速のご返事、ありがとうございました。これで意を強く致しましたので、船乗りの昔話を、時々思い出した時に送信させて貰います。ご紹介下さった、各 URL は知っておりまして時折、見させて貰っています。
高根さんの紹介で、こうして、みなさまの仲間入りをさせて貰って、有り難く思っています。
内視鏡によるポリープの検査をお受けになり、今回は見付からなかったそうで、よろしゅうございました。定期的に健康チェックをされている事とお見受けしました。
こちらは、間もなく 夜の10時になろうとしています。そろそろ寝ようと思っているところです。 賀多井
菅間さん
はじめまして、、。サンパウロの伊豆山です。
東京オフ会の幹事さん、山本芳雄さんも日立に居られました。メンバーの一人、クリチバ在の石田さんは、日立ブラジル(空調機工場)に勤務されていました。 私は日立ハイテック(元日製産業)に1960年頃から24年間勤めました。 差し支え無ければ、どの部門に、何時頃勤務されたのか教えてください。
伊豆山さん
こちらこそ初めまして。。です。ですが一つ間違えば既にお会いしていることになるでしょうね。
実は私も伊豆山さんにメールをと思っていた矢先で吃驚しているところです。
私は1964年日立入社でずっと海外事業の営業を担当しており、車両、重電が主でしたが、日製にもそれこそ沢山の知り合いがおります。
それにしても随分長い間のブラジル勤務をされましたね、1960年からですと、大久保、宮田、山本の諸氏とは今も付き合いがありますが、ブエノスに居る郡さんは元日立でメキシコ勤務時代からの大先輩で親交があります。
これは日立の仲間ですが、同期の竹下君が長くそちらで居ましたから、お知り合いになられたかもしれませんね。
以上取り急ぎの一報です。
菅間
菅間さん 懐かしい名前が『ズラリ』と並びました。
郡さんとは、日製の事務所を独立させる前に、一年ほど、日立ブエノス事務所で机を並べていました。家族を呼び寄せる前には、毎週末にはお宅に呼んでもらって、美味しい日本食を食べさせてもらっていました。郡さんは今はブエノスですか? それとも日本?
この正月に、滝波さんから写真つき年賀状を頂きました。 彼は、おやじそっくりの顔になりましたよ。
私が会社を辞めるとき、後任にだれを推薦するかと、大木社長に聞かれて、山本さんを推薦し、彼が私の後任としてブラジルに来ることのなったのです。 山本さんとも暫らく会っていません。
竹下さんとは仕事の関係はなかったですが、よく顔を合わせていましたよ。 大久保、宮田は仕事の仲間でした。
永野さんがマリンガで、人生をしっかり楽しんでいらっしゃるのをご存知ですか?
菅間さんの個人メールアドレスを教えて下さい。 あまり詳細な個人話は、周囲の方に迷惑がかかりますので続きは、菅間さんのメールアドレスに送ります。
伊豆山 yasuo@cis.com.br
井川様
井上さんのことでお手数かけました。
お陰様で年末、年始の二度にわたり井上君と旧交を暖めることが出来ました。井上君が短期間私と同じ会社に在籍していたことは実に驚き以外の何物でもありません。
井川さんのことも井上君からいろいろ話を聞きました。今後ともよろしく。
菅間
菅間五郎様 井川です。ご丁寧にお礼をいただき恐縮です。今日井上先輩とは一日ご一緒させていただき、昔の話もたくさんうかがいました。
良い再会のお手伝いをさせていただき、大変光栄に存じます。
それもこれも和田さんの日ごろのご努力のおかげで、バーチャルからリアルが生まれた話がまた一つ増えたということでしょう。
これからも宜しくお願い申し上げます。
東京都江戸川区在 井川拝
井川 実様、菅間五郎氏へのメールに、井川さんが小説執筆中とありました。どういう題材か興味あり、上梓を期待しています。
小説ではありませんが、先日今村邦夫君に電話で新年のあいさつをした時、(彼はPCを持っていないので)移住連盟創設のころのエピソードを持ち寄って、文章にして残そうではないか、という話になりました。
5月に帰国した際、高橋順次郎、堀口進一(彼とは中高の同級生です)君たちと集まろう、と思っています。貴君にも是非この集りに参加して欲しい、と思います。
又、この文を読んで、「俺も仲間に入れろ」という方が現れることも期待しています。
さて、アメリカ便りを読んで下さっている由、有難う御座います。出版は無理ですが、HPを立ち上げて、「慶長、アメリカ便り、小話」を入れようか、とも夢想しています。
では、お元気で、 San Antonio,TX 富田眞三
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