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【先駆者を詠う】コロニアの歌人早川 清貴さんの短歌が届きました。
これまでも何度か『私たちの40年!!』寄稿集に紹介させて頂いているBATEPAPOのメーリングリストの論客早川さんは、歌人としての名声も高く評価されていますが、詠われる題材が100年の歴史を誇るコロニアの先駆者への思い、実体験による移民の一人としての目線での詩は、共感を誘います。今回は、早川さんの解説文に更に谷口さんがコメントを付けておられより分かり易く10首の歌の情景を彷彿させて呉れ先駆者の苦労を偲ぶ縁になっています。
お二人の了解が得られましたのでBATEPAPOに投稿されたそのままの形で掲載させて頂くことにしました。
写真は、アマゾン移民80周年記念祭に県連の「第32回ふるさと巡り」に参加 させて貰いアマゾンに入られた移住者の皆さんのご苦労を垣間見て来ましたが、その時に撮った写真を使用しました。写真はマナウスに置ける80年祭に上段に島内大使以下の雛壇、下に長年苦労された移民の功労者の皆さんを囲み参加者全員の記念写真です。


バテパッポの皆さん
早川です

移り来た目的、方法はどうであれ外地に居住する日本人それを一緒くたに移り来た民と言うならば<我又移民の子なり>と勝手に理解します。

荒削りの大自然に、果敢に、挑んで征服した移民先駆者の実績を咀嚼して、己の日本人である矜持の縁(よすが)とするべく先人の夢をの跡を辿り其の戦いざまを<短歌による日本人移民民史>とするのも悪くないなあ、と何時の頃か思い立ち旧植民地等の探訪を実施に移した、訪ねる先でサンパウロ市で或いは田舎の町で古老から往時の苦労談話等聴取して、既に、百首程の短歌が手元に溜まった。

一方、二世、三世諸氏から<日系>としてこの世に誕生した運命的なものに対する思想を知るべく医者、弁護士、軍人、建築家その他自由業で悠々自適の生活者の数多居る旧コチア組産業組合のスポーツクラブに入会して、適宜に、彼等の考えをも聴いた、因みに、そこで日系初めてのブラジル陸軍少将、退役して中将、小原氏と親しくなった同氏はコチコチの日本人であることを発見した。

サンパウロ市から380kmの地点に奥地の雄都”Bauru'”市がある、其処から北へ向かって50kmのチエテ河の沿岸に”Iacanga”なる小さな田舎町がある、此処に日系人夫婦が経営するところの”Quilombo”と言う黒人占有の地名をつけた鄙びた温泉宿がある。
かって、小生は<鬱病>に苦しんだ折に藁をも掴む思いで此処で転地療養した思い出の地であもあることから先般訪ねてみた、折りしも、80歳前後田舎の、日本人、ご老人のバス旅行の団体に遭遇した、何れも一見歴戦の勇士と云った顔立ちであった、三日間の滞在中に進んで接触して皆さんが移民として戦った昔日の実績など貴重な体験談を物語ってもらった、この折の話しを基に、その後、別添の如き短歌(うた)に纏めた、先人が想像に絶する環境にあって勇敢に戦った往時を垣間見て頂けたら幸甚です。

先駆者を詠う
01)うっそうと太古の森は一世紀地平の果てへ大豆の風吹く
   入植当時はうっそうと繁茂した原生林は今往時の姿を留める面影は何処にも無く地
   平戦へと遥かに広がる緑の大豆畑を風が通りすぎるだけ。

02)医者も無く滋養も摂れず蓄えも窓からすがる南十字星
   マラリヤ、日射病、その他の疾患に対して言葉分からず、金無し、医者なし、終日
   窓辺の急ごしらえの寝台に横たわる、夜が来て窓から見える南十字星であろう輝く
   星に縋る以外は方法がなかった。   

03)「金のなる木コーヒー」を求めて異国へ移民達働けど働けど木陰で泣く日々
   ブラジルでコーヒー栽培に従事したら短期間で儲かるとの日本での根拠の無い噂
   を信じて移り来た、炎天下の重労働に耐えて一年、一向に貯まらぬお金後悔先に立
   たず、コーヒーの葉陰で泣く日々であった。

04)五年後に故郷に錦と約せしも山河見ずして異国の土と
   五年後には成功して帰る故に待っていて欲しい等と家族友人に約束したが、其の約
   束も果たせず、虚しく、逝ってしまった多くの同郷者、同胞が思い出される。

05)味噌醤油豆腐を作る植民地せめて祖国は食卓の上で
   望郷が募る、されど帰ること出来ず大豆を使って味噌、醤油、豆腐等を作りしばし
   故郷の味に浸る日々が続いた。

06)漸くに我等手にした移住地に建設の斧日本語学校
   辺鄙な地区で満足な学校もなく、日々の心配は育ち行く子供達である、辛苦の結果
   移住地を買い取り、其処に、植民地を建設した、最初に手をつけたのが子供達の学
   ぶ、お粗末ながら、学校もどき建物であった。

07)失ひし過去を謗りて老移民骨立てる手にコーヒーすする
   「ヨーは一生懸命働いたが駄目だった」と過ぎ去りして過酷の日々を謗る老移民節
   くれた指にコーヒーカップを持ってずるずると飲む其の姿は敗残の兵の如く。

08)アナコンダに呑まれし赤子の歳数う古老皺立つ指折りて
  
 何と驚きの告白である、この老人チエテ河の沿岸のコーヒー畑に入植、ブラジルに
   来て初めて男子を得た、子守する時間人手無くダンボール箱に入れて木下に寝かせ、
   時間が着たらお母さんがお乳を飲ませて、寝かせた又働くと言う日課であったが、
   ある日お乳を飲ませに木の下に出向いたが、其処には乳飲み子の姿が見えない木の
   下から数メートル先の草村を何かが這った形跡があり土地の人間曰く大蛇に飲まれ
   たと、今生きていれば、、、、と指で数えて淡々と語る。
   
09)コーヒーの枝を扱きぬ浮腫む掌(て)で夜の帳に祖国へ手紙
   夜の帳が下りた、日中のコーヒー収穫作業はたわわに実ったコーヒーの枝を両掌
   で扱いて木の下に落とす作業、一日終わって食事の後に祖国へ認める手紙、書く手  
   が浮腫(むく)んで、痛み筆を握るも儘成らない。

10)とつとつと身の上語る老移民熊本訛りとブラジル語
   「うまくいかんとよ!」、「やりますけん」「そげなこと出来るわけない」等熊本、広島訛りそれに日系コロニア語を混ぜて己の過去を懸命に語る姿はブラジルの日系社会に日本の縮図を見る思いである。


早川さん、皆さん、
皆さんの執筆活動の早さに中々付いて行けません。
遅ればせながら、前日、早川さんの「先駆者を謡う」は非常に感銘を受けました。
自分も掘っ立て小屋で裸足で生活した時期がありましたので感無量です。

先駆者を詠う
01)うっそうと太古の森は一世紀地平の果てへ大豆の風吹く
   入植当時はうっそうと繁茂した原生林は今往時の姿を留める面影は何処にも無く地
   平戦へと遥かに広がる緑の大豆畑を風が通りすぎるだけ。
小生の家族は、親父中心で小さな土地を耕して野菜、花を扱いましたが、大豆も植えました。
自分の消費に精一杯の範囲。

02)医者も無く滋養も摂れず蓄えも窓からすがる南十字星
   マラリヤ、日射病、その他の疾患に対して言葉分からず、金無し、医者なし、終日
   窓辺の急ごしらえの寝台に横たわる、夜が来て窓から見える南十字星であろう輝く
   星に縋る以外は方法がなかった。 
当時は星空が美しかった。だけどその美しさを愛でる余裕はあっただろうか。
小生の母方の祖父は軍医でした。偶々観光で立ち寄ったブラジルで平野植民地を開いた平野氏に会い、その薦めでブラジルに残り、
暫く医術を施した経歴があります。講道館の黒帯であった祖父は日本人離れしていて、日本人をからかった「黒んぼ」を投げ飛ばし、喝采を受けてたとか。マラリア、日射病とも怖い物でしたが、当時山中の子供には分らない怖さ。他人の噂で怖がる程度。  

03)「金のなる木コーヒー」を求めて異国へ移民達働けど働けど木陰で泣く日々
   ブラジルでコーヒー栽培に従事したら短期間で儲かるとの日本での根拠の無い噂
   を信じて移り来た、炎天下の重労働に耐えて一年、一向に貯まらぬお金後悔先に立
   たず、コーヒーの葉陰で泣く日々であった。
小生の地方は霜が多くコーヒー栽培に向いて無くも一部の方々は植えていました。
カボークロが砂糖に塗し、炒って挽いたコーヒーは甘くておいしかった。

04)五年後に故郷に錦と約せしも山河見ずして異国の土と
   五年後には成功して帰る故に待っていて欲しい等と家族友人に約束したが、其の約
   束も果たせず、虚しく、逝ってしまった多くの同郷者、同胞が思い出される。
小生が最初の訪日が出来たのが30年後。何とかお袋と親父は先に訪日させる事が出来た。それでも25年掛かった。

05)味噌醤油豆腐を作る植民地せめて祖国は食卓の上で
   望郷が募る、されど帰ること出来ず大豆を使って味噌、醤油、豆腐等を作りしばし
   故郷の味に浸る日々が続いた。
味噌、醤油等は隣人が作ったものをおすそ分けの時代。各自自慢の料理を時々交換していた。
自慢と言っても限られたものばかり。当時は良くお隣にカップ一杯の塩や砂糖を借りに行く事も。

06)漸くに我等手にした移住地に建設の斧日本語学校
   辺鄙な地区で満足な学校もなく、日々の心配は育ち行く子供達である、辛苦の結果
   移住地を買い取り、其処に、植民地を建設した、最初に手をつけたのが子供達の学
   ぶ、お粗末ながら、学校もどき建物であった。
分け合って、親父は日本語学校で教鞭を取る。途中で事情があり、百姓に転向。
まだ未開地を隣人の手助けで切り開く。オンサ、ヴィアードもまだうようよしていた。これが当時サンパウロ市から僅か40Km離れた所。

07)失ひし過去を謗りて老移民骨立てる手にコーヒーすする
   「ヨーは一生懸命働いたが駄目だった」と過ぎ去りして過酷の日々を謗る老移民節
   くれた指にコーヒーカップを持ってずるずると飲む其の姿は敗残の兵の如く。
小生の入った村では敗残者的な方はいなかったけど、後期に一人本当に裸一貫的な人が入植し、相当な困難に遭っていた。

08)アナコンダに呑まれし赤子の歳数う古老皺立つ指折りて
 何と驚きの告白である、この老人チエテ河の沿岸のコーヒー畑に入植、ブラジルに
   来て初めて男子を得た、子守する時間人手無くダンボール箱に入れて木下に寝かせ、
   時間が着たらお母さんがお乳を飲ませて、寝かせた又働くと言う日課であったが、
   ある日お乳を飲ませに木の下に出向いたが、其処には乳飲み子の姿が見えない木の
   下から数メートル先の草村を何かが這った形跡があり土地の人間曰く大蛇に飲まれ
   たと、今生きていれば、、、、と指で数えて淡々と語る。
当時、ダンボールは無かったと思いますが、一番手近にあったのが野菜用の木箱、或いは綿摘みの竹篭等。
自分が入った土地も最初に切り開いた時は大きな大木が邪魔で倒した所、その根っこは正に「蛇の巣」すごい量の蛇が出てきました。
スクリーが特に川で洗濯する女性、釣り人等を飲み込んだ話が盛んに言われた時期。

   
09)コーヒーの枝を扱きぬ浮腫む掌(て)で夜の帳に祖国へ手紙
   夜の帳が下りた、日中のコーヒー収穫作業はたわわに実ったコーヒーの枝を両掌
   で扱いて木の下に落とす作業、一日終わって食事の後に祖国へ認める手紙、書く手  
   が浮腫(むく)んで、痛み筆を握るも儘成らない。
花の種子の「へた」取り作業。冬にはつらい仕事。指の節々が痛みます。バラの時は棘(とげ)で手はボロボロ。
親父は筆不精だったけど、日本の妹(叔母)の手紙は何とか返事をしたためていた。その他はお袋が代筆で書いていた様に思う。


10)とつとつと身の上語る老移民熊本訛りとブラジル語
   「うまくいかんとよ!」、「やりますけん」「そげなこと出来るわけない」等熊本、広島訛りそれに日系コロニア語を混ぜて己の過去を懸命に語る姿はブラジルの日系社会に日本の縮図を見る思いである。
移民のおかげでこちとら「ズーズー弁」も「熊本バッテン」も不自由なかと。

早川さん、ありがとう。


谷口 さん、皆さん
早川です
小生の拙い短歌に過分のお褒めの言葉を頂いてありがとうございました、かように少しでも感じて頂ける同胞がおられることに、何か、今まで彼方此方歩き回ったことが報われるような気がします
結果的はどうであれ、小生は、異国で見事に大和魂を見せてくれました先駆者諸氏に対して強い畏敬の念を持ち合わせています。

谷口さんご祖父が<平野植民地>と関係がおありの様子ですが其処は今<Cafelandia>と呼ばれています、1916年に平野運平氏が現在の”Guatapara”移住地から独身希望者を引き連れて初めて<植民地>として1200アルケールの荒野(PresidentePenna地区)を切り開いたものです、しかし、この植民地はマラリヤの犠牲者で当時の新聞<時事本>は「火葬数10日に亘るものだった」 と報道しています又<聖報本>は「入植当時マラリヤの犠牲者が80余名に上がった惨事」とも報じています、入植した、殆ど、がマラリヤに罹ったようです。
小生は、この地を訪れていますが今は昔の面影を残す何者ありません、牧場の中に小さな碑が立っいたこと、其処から一寸離れたところに日本の<松>がどっしりとした根を据えて緑を湛えていたこと等、多分、あの当時植られたものであろうと想像しました、平野植民地であったことが伺えます。
  
  -百年の移民の心宿さんか松太太と緑豊かにー

帰路車の中で詠んだ一首です。

早川 さん 谷口 さん 皆さん 南の和田です。
暫くご無沙汰しておりますが、バテパポの健筆家の皆さんの書き込みを読ませていただいております。この年でまだ仕事も遣っており『私達の40年!!』のHP(27日に140万回のアクセスを記録しました)、メリングリスト、BLOG等私自身が管理運営しているサイトのFLWで手が一杯で皆さんとの会話に参加できないでいます。
今回の早川さんの『先駆者の過去を偲ぶ』を読ませて頂き何時もながらと感心しておりましたが、谷口さんが実経験を基にコメントしておられるのを読みさらに感動すらしました。昨年の日本移民100周年祭、今年の9月に行われたアマゾン移民80周年祭にも参加させて頂きブラジルに住む1移住者としてその歴史を大切にしておりますが、それら移住者としての先駆者の目線に立って詠われた早川さんの先駆者を偲ぶ詩と谷口さんのコメントを是非『私たちの40年!!』の寄稿集にも残して置きたいと思いますので転載をご許可頂きたいと思います。

早川さんの過去の移民を詠う詩は下記に掲載されています。
http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=1295

http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=1154


早川さん、皆さん、
谷口です。
平野植民地の最後は小生も聞いています。
祖父も一回日本に帰り、それから移住して来ました。
その時にはもう遅かったのかも知れません。

残念ながらその時の詳しい資料もどこかへ行ってしまいました。
その後、祖父はバイア州や他の日系人の集まりのある所を転々し、最後はサンパウロ州のチビリッサで薬局を開きました。

小生が学生の頃、その祖父とリベルダーデを歩いた時、何人かの人が祖父に歩み寄り、小生の方に向かって「私は貴方のおじいさんに命を救われました、、、」とのコメントを多々聞く事になりました。

頑固で厳しい祖父でしたが、今でも尊敬絶え間ない祖父でした。
最後の日まで巨躯を動かし、歩き回り、96歳で大往生しました。

漢詩が得意で最後まで明治気質を守りました。
機会あれば、資料を見つけ、早川さんにお見せしたく思います。
ありがとうございます。

谷口


和田さん、皆さん、
谷口です。
早川さんの詩の一つ、一つに当時の自分の境遇とイメージが重なり、浮かんで来るのですね。
小生はまだ他の諸先輩には恥ずかしい経験ですが、本当に戦前、戦中の移民の方々は大変だったと思います。

小生の祖父等は特に大変な経験をしています。資料が見つかればどなたかに見て頂きたく思います。
ありがとうございます。

谷口


南の和田 さん、谷口さん、
早川です

和田さん御誌への掲載、このような愚作ですが、それ等が何らかの役に立つならどうぞご使用下さい、但しもう一度誤字、表現の不適当否をご点検下さい、必要なら、和田さんご自身修正を行って頂いてかまいません、南で天災発生の折に何時も和田さんを思い出しています、心置きなくお仕事に邁進出来る日々を祈念しています。

谷口さんご祖父の件、何か、小説が書けますね谷口さんがおじい様を今尚ご尊敬されている点痛く感じました、大きな男が長寿を全う存分に生きられて大往生のご様子が伺えます、もし資料等見つかりましたらお手数でも、是非、拝見させて下さい。

早川 さん/谷口 さん 南の和田です。
『私たちの40年!!』寄稿集への掲載を承諾頂き感謝します。週末に適当な写真を探し(今回は、アマゾン移民80周年関連の写真を探して見ます)掲載させて頂きます。一応掲載文章は、読みなして必要と思われる部分はCHKしてみます。掲載次第この欄でお知らせしますので再度CHK頂けると幸いです。
谷口さん 初めまして。どのような経歴をお持ちの方存じ上げませんが、ご祖父から3代にわたってのブラジル生活をされて来られてようで非常に興味を抱いています。移住者の目線で物事を観ることのできるご仁、同志のような気心を感じています。今後とも宜しくお願いします。



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