川越 しゅくこさんの【アメリカン青春グラフィティ】 Honey FM 記載記事 (その1−その5)
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川越しゅくこさんの【アメリカン青春グラフィティ】を『私たちの40年!!』メーリングリストに送って頂いておりBLOGにも写真と共に掲載しておりますが既にその7まで掲載しているのに纏めて読めるように寄稿集にも掲載すると約束して置きながらそのままになっていました。オランダのあや子さんが是非全文を通して読めるようにして欲しいとの御希望を表明しておられ早速第1部としてその1―その5までをコメントと共に纏めました。
写真は1枚しか掲載出来ないので送って頂いた内の一枚ワンちゃんと一緒の若き日のしゅくこさんの写真をお借りしました。しゅくこさんは私たちの乗船したあるぜんちな丸の直ぐ後の第13次航で神戸からロスアンゼルスに留学されたので同じ仁平仁平船長さんだったようで写真もありますので次回に紹介させて頂きます。
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アメリカン青春グラフィティ Honey FM 記載記事
その1 「留学生はお客さま?」
留学する前に、一足先に渡米していた知人から一通の手紙をもらっていた。
「アメリカは労働者の天国です。いくらでも仕事はありますから安心してください」と。私はその手紙を
複雑な気持ちで読んだ。「労働」? 留学する身にはそぐわない響きだった。それどころか、働くことはなんだかみじめで恥ずかしいことのように思えた。「労働」という言葉が広くなにを意味するのか私には分からなかった。1962年、20才の夏、2週間かけて客船「あるぜんちな丸」で太平洋を横断し、いよいよ現実のアメリカ社会に生活するようになって、私はおそまきながらその意味を知るようになる。
ホームステイ先の家の前庭には、クルミの大木が枝をいっぱいに広げていた。小学生の息子たちはその木に登ってよく遊んでいた。クルミが熟して芝生の上に落ちる頃、彼らはそれを拾い、みかん箱の上に並べ、道路に面して座り込み、大声で近所の人に叩き売り(?)したものである。自分で稼いだ小遣いで、両親へ手作りのリースをクリスマスプレゼントしたい。そのためのお金が必要なのだと言う。それでも足りない分は近所の年上の女の子のベビーシッターを頼まれていった。気心のしれた互いの母親どうしの、おしゃれな裏工作である。親も子供たちの「労働」をおおいに奨励していた。働くことは恥ではなく誇りであった。ホームステイ先のお父さんは大学教授である。このようにどんな裕福な家庭の子供たちでさえ自分で小遣いを得ることに誇りを持っていた。当時、アメリカはまだ留学生の労働には寛容であったので、私も翌年からせっせと働きはじめた。夏休みには日中、働く親の子供のお守りをし、夜は日本料理店でウエイトレスをし、帰宅してから通訳、翻訳のバイトをした。同じ大学に、二人目の日本人が留学してきた。着いてすぐ、彼女は「ホームステイ先の家族のことで相談したい」と私を呼び出した。「私はまるで女中みたい。皿洗いや子守りまでさせられるの。家でもそんなことさせられたことないのに・・」と涙ながらに訴えた。慰めの言葉に詰まった。留学前にもらった知人の手紙に反応した自分がよみがえってきた。さて帰国してはや50年。その間、何人かの留学生にかかわってきた。そのホームステイ先からの不満の声が耳に入ってきた。「日本の留学生はまるでお客様みたいになにもしない」と。 50年たってもあまり変わらない意識がある。でも、ゆっくり変わっていくものもある。今になってやっと 中学の英語の教科書にその課題が登場するようになった。
(コメント集)
お話は変わりますが.......。
しゅくこさんのことを何も存じ上げない私は、和田さんとしゅくこさんのやり取りを拝見し、「ひとりぼっちの楽園」のことを知りました。
早速、インターネットで検索。
しゅくこさんが作家であり、趣味が乗馬と知り、先日の一件のことも理解出来た次第です。
また一つ楽しみを与えていただけました。
28日の右目の手術後、視力が少し落ち着きましたら、ぜひ「ひとりぼっちの楽園」を読ませていただきたいと今から楽しみにしています。希望をいただきました。(ニッコリ微笑み顔)
しゅくこさんとの再会。
4月25日、神戸でお目に掛かれますことを楽しみにますます張り切りま〜す!
マリコ
アメリカン青春グラフィティ Honey FM 記載記事
その2 「 養子縁組 、 親との同居」
1962年8月。あるぜんちな丸はロスアンゼルスに着いた。ホームステイ先のお父さんは留学先の大学教授で36歳。妻と小6、小2の2人息子、そして1才の養女の家族構成である。中産階級の人たちの住む、その落ち着いた住宅街には、平屋建ての家の裏にプール、2台の車、表には垣根のない広い芝生の庭があった。週末になると芝刈り機のモーターのうなる音があちこちで聞こえた。カリフォルニアの青い空の下、お父さんたちは上半身裸になって芝刈りに精を出す。お母さんたちは庭のテーブルで週末に孫を見にくる両親たちに冷たいレモネードを出し、世間話に興じていた。私はしばらくの間、おじいちゃん、おばあちゃんの相手をし、そのあとは庭で遊ぶ子供たちの相手をした。モーリーは生まれて半年して、どこかの乳児院からもらわれてきた。「うちにはもう男の子はいらないの。それで私たちと同じアイルランド系の女の子をもらったのよ」とまるでペットをもらったような気楽さでお母さんが言う。もちろんモーリ―は実子たちと分け隔てなく、自然に可愛がられて育っていた。
庭には、青空いっぱいにクルミの古い大木が枝を広げていた。お父さんが芝を刈る間、男の子たちは近所の子供たちとその樹に登ってよく遊んだ。お兄ちゃんたちに相手にされないモーリーは、私の後をよちよちついてまわった。子供たちは私にとって恰好の英語の先生になっていた。私はその辺り一帯でひっぱりだこのベビーシッターであったから、いそがしく近所を渡り歩いてあちこちの家庭の事情に詳しくなっていった。驚いたことに、近所には、あの子もこの子もという具合にたいていの家庭に養子がいた。他者を受け入れて一緒に住む気やすさ、楽しさ、壁のない人間関係。私もまたそんな雰囲気の中で気楽に受け入れられていたのだ。反面、私にはどうしても理解できないことがあった。それは、両親たちが年老いて身体に支障をきたしても、彼ら双方に同居するという発想はなかったようだ。養子縁組など簡単にやってしまう彼らなら、親を引き取ることなど簡単なはず、・・・という私の思い込みは、どこかではっきり間違っているようだった。この二つの間になにがどう違うのか、私はどうしても接点が見いだせなくて首を傾げていた。三世代同居の家族を留学中一度も見たことがない。
アメリカン青春グラフィティ HoneyFM 掲載記事
その3 「犬のいるクラス」
1962年、あるぜんちな丸で渡米し、カリフォルニアのD大学に入ってはじめてのクラスだった。英語力がない。友達もいない。そんな不安の塊を抱かえてジャーナリズムのクラスに向かった。ゆるやかな芝生の斜面をおりると、小道にそってペンションのようなプレハムが点在している。ジャーナリズムのクラスはその中の1つだ。とりあえず、椅子に座れば少しは楽な気持ちになるだろうとドアを押した。12畳くらいの部屋に14.5人くらいの学生たちが壁にもたれ、思い思いに話している。黒板と大きな机が1基だけで、椅子は1脚もなかった。クラスに椅子がないという現実に、これほどうろたえたことは私の人生にはない。「人を頼るな。丸裸で勝負しろ」と宣告されたかのような心境だった。
まもなく30代半ばくらいのフランク・ハーマン教授がさっそうと入ってきた。
彼の膝あたりに何かが一緒に入ってくるのが見えた。絹のような白地の体に黒い斑点を体中に散りばめたスマートな犬。101匹わんちゃんの映画に登場するダルメシアンだった。犬は教授の足もとに腹ばいになり、長い前肢を伸ばして顎を乗せるや口元をたるませ目を閉じた。そしてすぐに寛いだクラスの一部と化した。
学生たちは教授のことを「フランク」と名前で呼ぶ。その短い髪は逆立ち、頬に10cmくらいの切り傷の痕、エメラルドグリーンのカッと見開いた瞳、朗らかな声音。
教室の中の空気が急に活気づいた。ナチの迫害からアメリカに逃れてきたユダヤ系ドイツ人だとキャンパスでは人気教授だった。彼は出席をとりはじめた。みんな姓でなく名前で呼ばれている。「シュクコ」と彼はクに強いアクセントをつけて呼んだ。「Here (ハイ)」他の学生の言い方をまねて精一杯返事をしたつもりが消え入りそうな声になった。犬が顔の位置を少し変えた時、偶然私と目があった。罰ゲームで墨を塗られたような目に、女性が泣いた後のマスカラが垂れている、そんな情けない表情だった。私の気持ちの在りようを見事に映している。犬は大きなあくびをした。そのあくびに誘われて私も思わず大きく深呼吸していた。なんだか緊張がほぐれて、学生生活をスタートさせていけそうな気持がどこからか湧いてきた。フランク教授は私が日本からきたことを紹介し、サリ―という女学生にむかって「シュクコのことを頼んだよ」と言い、私には「今日はサリーと一緒に取材先についていくように」と言った。サリーは微笑んで私に手を振る。ただそれだけのごく自然の対応だった。この後、簡単な
連絡事項があり、私たちは犬に見送られてそれぞれの「取材先」に散っていった。
ジャーナリズムのクラスはまず大学の新聞作りから始まる。そういうクラスだったのである。犬が嫌いな者、アレルギーの者もいたかもしれない。しかし異質な存在を受け入れるおおらかさがクラスにあった。ペットを教室にもちこむなとか、反対にことさらの愛情でべたべたする学生もいない。教育は一律的なものではない。柔軟さと多様性を重んじる。そんな教育現場に成熟した大人の世界を感じた。
それからクラスに行くたびに犬と目であいさつし、取材先に機嫌よく飛び出せた。私はペットの存在に癒されていたのであろう。そこには科学的には解明されない不思議なよい空気が生まれていた。
帰国後、私は自宅で子どもたちに英語を教え始めた。わが飼い猫のタンゴは教えたわけでもないのに、あのダルメシアンのようにいつも子どもたちの輪の中で寛いでいる。かれらの大声や突飛な動きにはビクともせず、ひかえめにクラスの一部と化して子どもたちの歌声を眠ったふりをして聞いている。自信にあふれ、はじけているかれらの歌声を聞きながら、ペットのいるクラスが生み出す力に、私も喜びのおすそ分けを頂戴している。
(コメント集)
川越しゅくこ 様
このyoshijiwada blog の書き込み最優秀賞。
甥の愛知教育大学付属小学校(愛知県岡崎市)の小学生に見せました。
愛知県内の刊行物でもこれだけ優れた見たことがありませんでし た。
川越さん
読者さんの賛美の声、有難いですね。私の所では転載させて頂いているだけですが、多くの皆さん特に小学生にも課外教材?としても読んで貰えるのは光栄ですね。続きを楽しみにしています。
アメリカン青春グラフィティ Honey FM 掲載記事
その4 「移民たちに学んだこと」
「留学は船で行ったのよ」と言うとたいていの人は「?」という表情をする。
ジーパンで気楽に飛行機に乗れる時代になって、客船の旅はかえって贅沢にな
ってしまった。初代の「あるぜんちな丸」はもともと世界一周の豪華客船だった。私が乗船した1962年頃は、ブラジルのサントスまで移民を運ぶ貨客船として活躍
していた。学生たちの多くはこれに乗船し、途中のロスアンゼルスで下りた。
神戸からロス港までの2週間の旅費は、4人部屋の2等船室で$350. 1$=\360の時代であるから、日本円にして12.6万円になる。私の所持金はわずか$50だった。留学生といえば特別に選ばれた者と社会的に思われていたが、私の場合は自分の力で勝ち得たものではなく、ひょんなことからチャンスが与えられただけなので、不安と自信がないまま乗船の日を迎えていた。白いレースのワンピースに白い花の髪飾りがその時の私の盛装である。見上げる「あるぜんちな丸」は一目では納まりきれない長さと幅を有し、その任務を心得ているかのように静かに停泊していた。1カ月以上かけて地球の裏側に開拓移住する人々は、甲板の手すりから身を乗り出し、見送りの人々のやがては切れて海に散っていく色とりどりの紙テープの端をしっかり握りしめていた。出港のドラが鳴ると港全体がいっせいにどよめいた。彼らの絶叫と、ある種のエネルギーがうねりのようになって私を圧倒した。それは初めて耳にする類の、人間の生々しい声だった気がする。
この時私はなにかを学んだのだと思う。
移住者たちは3等船室の大部屋に寝起きしていた。私と同年齢の若者たちもたくさんいた。船室別の規制はゆるかったので、私たちは甲板で卓球に興じ、鯨が並んで泳ぐのに喚声をあげ、夜は星の降る甲板で、ときにはピアノや図書のあるサロンで毎晩遅くまで話し込んだ。彼らの言葉の端々に固い決意が感じられた。
日本を後にして前にしか進むことを考えていない彼らには、吹っ切れた明るさがあったのだ。私の精神的な貧弱さが改めて対照的に浮き彫りになった。
ロス港に着く前夜、彼らは私のために送別会を開いてくれた。
その後、ブラジルに着いた彼らの苦労は筆舌に尽くしがたいものがある。
しかし、時を経て日本人の勤勉さと実直さがブラジル社会に高く評価され、日本文化もしっかり継承されている。なんとも地味で力強い歴史である。
私の青春グラフィティの1ページは「あるぜんちな丸」の若者たちとの出会いが大きい位置を占めている。あの送別パーティの夜、「君は言い訳ばかり言っている」と私を叱ってくれた青年は、今はどうしているだろうか・・。
(コメント集)
さて、「アメリカン青春グラフィティ」 3.4.5の記事と写真を一緒に送らせていただきます
1用にお送りしてあったあるぜんちな丸でのデッキでの写真は4に使っていただけるのならお願いします。4 用に船長さん(?)と一緒にとったのも入れましたのでどちらでも結構です。
こんな送り方でよろしいのでしょうか。お忙しいところ申し訳ございません。
楽しんでいただけるとうれしいです。
川越 しゅくこ さま
アメリカン青春グラフィティ その3とその4を下記BLOGに掲載させて頂きました。
BLOGも入力し易くなり文字サイズ、太字、文字色、写真掲載場所等が選べるようになり読み易くなりました。
見易いようにこれからも研究して行く事にします。
写真はあるぜんちな丸の船上の食事風景を4に移動させました。船長さんは私たちの時と同じ船長さんのようです。
和田さん
アメリカン青春グラフィティ その3,4 を掲載していただき恐縮です。
タイトルなどきれいなカラーにしてくださり、また文字も読みやすくまるで娘のあで衣装を見るようで「よくぞここまで成長したねー」という気分になりました。(ちなみに私には娘がいませんが)
船長さんは同じ方だったんですね。個人的にはあまりお話した覚えが
ありませんが,船長室をみせていただいたことは記憶に残っています。
私たちの乗船者には、和田さんのように新聞を作ったり、その後もずっと音頭をとり、つながりに力を注いでくださる方は、私はもちろん、だれも思いつかなかったと思います。すごいことです。ありがとうございました。
あや子です。
アメリカン青春グラフィティ楽しく読ませていただいてます。すごいですね〜あの時代に船でアメリカへ。東京オリンピック前ですものね。私も心の底ではあこがれていたのでしょうが、夢のまた夢でした。続き、楽しみにしています。
アメリカン青春グラフィティ HoneyFM 掲載記事
その5 「青春の絵」
誰にも、忘れがたい人生のある一瞬がまるで額の中の絵のように1つや2つあるのではないだろうか?しかも、それらにたいした理由があるわけでもないのに・・・・。
1962-65年のカリフォルニアでの大学生活は、苦しいことも嫌なこともなかったわけではない。
けれども、いまよりもっと感受性が柔らかだったのかもしれない。楽しいと感じられることが身辺にあふれていた。
私の心のなかにも、静かな存在感のある1つの絵が50年近く貼りついている。
あるぜんちな丸がロスに着き、迎えのスポンサーの女性と車で北上し、サンフランシスコ郊外にある大学に落ち着いてから1年たっていた。
若いということはとにかく順応が早い。留学生活も慣れ、友人も何人かできていた。
そのうちの一人が私を近くの牧場に誘ってくれた。はじめて馬に乗った。21才の時である。
一人っ子だった彼は、誕生日に両親からプレゼントされた愛馬をその牧場に預けていた。
森に囲まれた牧場に行くと、彼は大きな声で「プリンセース!」と口に手を当てて、森にむかって叫んだ。カリフォルニアの青い空はどこまでも広く透き通っていて、からっとした大気の中に牧草の匂いがした。私たちは黙って少しの間待った。
するとまもなく、森の緑の高みから大きな生き物が斜面を駈け下りてくる姿が木々の間に見えた。黒地に白いたてがみと白い尻尾、そして4本の白いソックスをはいた、ど派手な子だった。うながされて乗ってみると、とてもおだやかな気質の、背中がじゅうたんのようにソフトな馬だった。はじめてなのに、なぜか恐怖心とかそんなたぐいのマイナスの気持ちはなく、 自然に素直に馬の背と一体になった。・・・ただそれだけである。それ以外のなにもなかった。残念ながら、その友達との間になにかしらの甘美な出来事があったわけでもないし、乗馬のだいご味なんて、そのもっとずっとあとになってから知ることになる。
なのに、その時、その一瞬が切り取られ、心の襞(ひだ)にはめこまれ、まるで青春時代を象徴するかのようにいまでも存在しつづけている。母なる大地、頬をなでるかわいた風、足もとのさらさらした馬場の砂。それらがいまだに感じられる晴朗な絵なのだ。
乗馬は帰国して10数年たってからまた再開し、約30年続いている。
その間、私は馬のでてくる小説を5編、ロンドンへの乗馬旅行記を1編書いてみた。
しかし、この作品たちが、あのときはめこまれた風と温度と匂いのある絵をどれだけ越えることができたか自問自答する。小説をつづる楽しい挑戦はいまでもひそかに続いている。
存在しないけれど存在するもの。目に見えないけれど見えるもの。それが一生、人のエネルギーになってくれるならば、青春時代といわず、残された人生もいろいろなことを体験したい。心の中の青春は朽ちないのだから。
(コメント集)
外務省が出してる? 雑誌 海外日系人(季刊)とか雑誌ラティーナにも掲載されるといい・・
夏休みの小中高校課題図書に推薦。
川越さんの≪アメリカン青春グラフィティ≫沢山の方に読んで貰いたいですね。応援有難う御座います。『私たちの40年!!』寄稿集にも纏めて掲載予定ですのでそちらからも読んで頂けるのではないかと思います。
海外日系人(季刊)は、横浜のJICAで編集、発刊しておりこれまで何度か取り上げて頂いています。
和田さん 川越しゅくこです
青春グラフィティ その5・「青春の絵」 のプログへの掲載感謝いたします。
グラフィティが単なる思いで話しに終わらず、若い人が読んでも、なにかつながるような内容でありたいと思いつつ書いていますが、はてさてどこまで成功しているか・・・。難しいです。
和田さんがご指摘下さったプログへの書き込みをはじめて読んでみました。
インターネットのことがまだまだ不勉強な私です。幼稚な質問ですみませんが、これはメンバーでない方も読んだり、書き込んだりできるようになっているのですか。いずれにしても嬉しくてなんども読ませていただきました。それからあやこさんという方の書き込みもありました。ありがとうございます。
川越 さん
『私たちの40年!!』のホームページ(サイト)は、2002年5月11日、着伯40年に開設、3月12日に150万回のアクセスを記録しています。
http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/index.php
このHPにも書き込み自由な画像掲示板、掲示板が設けられています。
現在連載で掲載させて頂いているアメリカン青春グラフィティ は、『私たちの40年!!』関連BLOG2でこれも完全一般公開で誰でもアクセスできますしコメントの書き込みも自由です。
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada2/11918003.html
このメーリングリストだけは登録された会員(現在333名)二のみ配信されメンバだけが書き込み、コメントが出きる閉鎖的なメーリングリストです。メンバ登録は自由にできますが一応私が承認する形となってします。メーリングリストの内容をCHKすることは可能で投稿されたメールを読むことは可能と思います。
http://groups.yahoo.co.jp/group/watasitatino40nen/
以上簡単ですがご説明させて頂きました。
和田さん 川越しゅくこです。
お忙しいところ私の質問にお返事いただき有難うございました。
ところで、地元のHoney FM ラジオ局から「アメリカン青春グラフィティ」シリーズに関連した話をするようにとお誘いがありました。(3/30に)
あまり知識のない私が喋るのも僭越かと思いますが、「移民たちから学んだこと」ではあるぜんちな丸のことや、その後 同船客の方たちと連絡をとり続けていらっしゃる和田さんや、ブラジルなどへの公演を続けてらっしゃるマリコさんのことも一言紹介させていただきたいと思っています。
川越さん
ご活躍何よりです。是非『私たちの40年!!』、中平マリコさんをPRしておいて下さい。15分程度であれば録音しておいて神戸のOFF会で聞かせて下さい。
川越しゅくこさま
その後、腰の具合は如何ですか?
痛みませんか? 散歩、水泳を楽しまれていますか?
東京は桜が開花したと発表のあった翌日から気温が下がり、その上、冷たい雨が4日間続きました。
関節に痛みの持つものには少々気圧の変動が堪えます。
しかし、選曲、キー合わせ、歌の歌詞解読や記憶に楽しみを見つけ、痛みクンと戯れながら過ごしています。
そして、もう一つの楽しみは、「アメリカン青春グラフィティ」を読ませていただくことです。
いろいろな想像をしながら、勝手にしゅくこさんの歩まれた道、心に感じられた思いにお供をさせていただきながら、続きは.....と、胸ワクワクドキドキさせています。
白いレースに縁取りされた一枚一枚の写真も楽しみです。
文中、白いレースのワンピースと白い花の髪飾りが盛装とありますが、清楚なしゅくこさんに、とてもお似合いだったと思います。
目で挨拶を交わし心通じたダルメシアンとしゅくこさん。
しゅくこさんの笑顔が物語って素敵です。
実は、違った楽しみ方もさせていただいております。
大阪で生まれ育った私、16歳の時に芸能界入りしたのですが、
男子寮しかないため、プロダクションの社長宅に預けられ....etcと、しゅくこさんの青春に便乗させていただき、その当時のことに思いを巡らせたりもしています。
しゅくこさん、素敵な時間をありがとうございます。
続きを楽しみにお待ちしております。
最後になりましたが、ラジオ出演の折に私のことにも触れていただけるとのこと......嬉しく幸せです。ありがとうございます。
どうぞ、素敵なひと時をお過ごし下さいね。
腰の痛みが出ませんことを祈っております。
マリコ
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