「The last Xmas song」
川越 しゅくこ
「今井さん、よかったらクリスマスの歌をみなさんに歌ってくださいますか?」 若い女性看護師は微笑みながらゆっくりした大きな声で言った。参観にきていたわたしはあわててもたれていた壁から背中を起こし、向こう正面の父を見た。
その日は90才の父が通うデイ・サービスでのクリスマス・パーティだった。
看護師の口調はせかしているようでもなく、もしよかったら、といった軽い誘いであった。たぶん歌が途中で止まったら看護師がいつでも一緒にフォローする気配も感じられる。
クリスマスの歌をリクエストされたのは、父がもとプロテスタントの牧師をしていたことを施設側が知っていたからだろう。
しかしそれはもうずいぶん昔の話なのだ。母が亡くなった後、80代になっても雨の中、傘をさして自転車に乗り、自動車道の脇を走ったりしていた父も、そのうち三度転倒し、骨折と入院をくりかえした。90才近くになって例にもれず牧師にも認知症が訪れたのである。夜中の徘徊、おむつの着用。食べたことを忘れる。同居の弟夫婦にはずいぶん世話をかけていた。わたしが訪ねていくと、父は「遠いところをよく来てくれたね」ともつれるようにそれだけを繰り返す。「また来るね」と帰り際に手を握ると、幼児のように口の端が垂れてたくさんの涙をこぼした。そんなかれに独唱なんかもう無理というものだ。わたしは父の反応をハラハラしながら見守った。
父の返事を待つ間、看護師はそばのおじいちゃんと冗談をとばして笑っている。どうやら予定した規則どおりのスケジュールでないようだ。ゆるりとした時間が流れている。
窓越しに見える和泉山脈を背に、姿勢よく静かに座っている父の銀髪が輝いている。耳が遠いせいもあるがなんの反応もない。なにも要望せず、なにも反発せず、半ば化石化して、ただ静かに冬の陽だまりの空気を吸っている。その横には黒髪を後ろでひきつめ、ほっそりした芯のある体に黒い セーター、黒いスパッツ姿のルリ子さんがいる。まっすぐ伸びた脚の先を自然に組んでいる姿は80才でも、元バレーレーナであったことを彷彿とさせる。2人はいつも一緒にいる「仲良しさん」であることは看護師から数年前に微笑ましいエピソードとして聞かされていた。母には悪いが、私は2人の有り様が嬉しかった。
ルリ子さんの細く長い指がミカンの一袋の薄皮をていねいにはがし、そのオレンジ色の果肉を父の口元に差し出す。その一切れが生命の証のように艶よく輝いている。父は無表情で黙ってそれを口に含む。その動作は使い古したあやつり人形のように静かに最小限の動きをしていた。
顔なじみになったルリ子さんの息子さんは60才近いのかもしれない。何度か顔をあわせているうちに泉州人らしい気さくさで声をかけてきた。
「お父さんは聞こえてるんですかね?」
「さあ、・歌はもう、ちょっと無理だとおもいますが・・」
「あの2人以外はみなさん、寝てはるみたいですよ」
ホールは、車いすの背をまるめた30人ばかりの老人たちを抱きこむようなぬくもりを孕んでいた。
「まるでコンビニのおでんの鍋の中みたいですな〜。ちょうどいい温度のなかの具みたいにほっこりとなじんではりますな」といたずらっぽく同調を誘うのだが、わたしは笑いながらも父の様子が気になっていた。
2人は他の老人たちと同じようにぬくもりのなかにいる。にもかかわらず、その場にそぐわない空気をまとっていた。
それは2人がこの土着性の強い地元の出身ではないことが一つの原因であるのかもしれない。東京生まれのルリ子さんはご主人が亡くなって、ただ一人の身寄りの息子さんの勤め先であるこの地に引き取られている。わたしの父は富山県の仏教の信心深い旧家の出身で、牧師になる決心をして青年時代に勘当された。この地に一生をささげる決心をして以来、一度も帰郷していない。
わたしたちは、なんどかこういう行事があるたびに、少しずつ互いの事情を話すようになっていた。「母は父を交通事故で亡くしましてな〜、その強いショックが原因で、記憶も言葉も失ったんですわ。ぼくのこともついでに忘れてしまったようで」息子さんの微笑みのなかに一瞬の寂しさとあきらめの色が流れた。「最近は軽い認知症で家でもほとんど声を出すことありません。でも音楽が鳴ると、夢遊病みたいに一人で踊っている時がありますわ」「そうでしたか? わたしの父も話すことが少なくなりました
父は30代から50代までの間にドイツとアメリカの宣教師の協力を得て、教会堂、付属保育園、社会福祉会館、牧師館をつぎつぎと建設していった。敬愛する賀川豊彦氏を招いて講演会を開いたのも、わたしが中Tの頃である。100万部をこえるベストセラー「死線をこえて」の作者であり、社会運動家としても有名であった彼の講演会は、入りきれないほどの観衆で溢れた。駅前でビラ配りをして手伝ったことはよく覚えている。その日を記念してユーカリの木を植えた。それが園庭で巨木に育ち、私たちはその下で長いテーブルを出して、たくさんの人たちとランチを楽しんだ。子供たちも青年たちも若い父とともにワークキャンプやボーイスカウトの活動に積極的に参加した。いつも賑わっているそんな空気の中でわたしは育った。
当時、珍しかった保育園も入園児でいっぱいだった。迎えに来る母親が遅れると私も父も子供をお風呂へいれた後、家まで送届けたりしたものだ。そんな時代の父は故郷を追われた人であっても、悔いのない人生だったといっても過言ではない。
しかし、50歳を超えるころから、保育園が街の中心的働きをになうようになり、その反面、新しく建てた立派な教会の礼拝堂には空席が目立つようになってきた。
ときには来拝者が3-4人の時もあった。それでも父は壇上から群衆に語り掛けるように大きな声で説教をした。わたしには分かっていた。父の説教はもう古いタイプになっていたのだ。壇上から教えを垂れる式の説教は、参列する人々に寄り添うものではなく、堅苦しく、聖書の時代背景などを浪々と説く学者のような内容は、地方都市の工場に勤務する青年や戦争未亡人、年配の信者など、低所得者層には退屈で空疎な内容に聞こえた。それでも日曜礼拝の前日、父は礼拝堂を黙々と掃除をし、人の集まるのを待った。
一生懸命になればなるほど、それはなにかむなしい語り掛けのように思えて教壇と会員の座席のすき間はしらじらしいなじみのない空気があった。
かれの老年期は物理的な成功に反して、精神的には思わぬ坂をくだりはじめた。
そしていま・・・・。だからこそ、ルリ子さんとのおだやかなデイサービスの時間にわたしは拍手したい気持ちであった。人は言葉で語り合わなくても、心だけで交わることができるということをそのとき父が教えてくれた。
2人は看護師の呼びかけが聞こえているのかいないのか、あいかわらずただ一枚の牧歌的な絵のようにそこにいる。
互いのたどってきた履歴などから逸脱し、なにが今起こっているのか起こっていないのかすら関係なく、今日が明日につながることのない点と点であっても、それでも無言のやりとりは交わされているのだった。
「今井さ〜ん、お願いできますか? お得意のクリスマスの歌を」
看護師はにこにこしながら2人の前までやってきて笑顔で同じ言葉をゆっくり繰り返した。
そのとき、父は思いがけず、背中をシャンと伸ばして、杖を支えにしてすっくとたち上がったのだ。突然、高らかな歌声がその唇からあふれ出た。「き〜よしこの夜、ほ〜しは ひ〜かり♪」音程のしっかりした若い頃のそのままの声が朗々と流れ、ホールの空気を圧倒した。重みのなかにちょっとほがらかさも混ざった聴く人を包み込むような声質、それは大勢の人に賛美歌を捧げるために特別に授かった類まれな声であった。歌詞も一言も迷うことなく歌えた。首を垂れた老人たちの目玉だけが動いて父を見上げている。
父の歌声を聴くのは半世紀以上かもしれない。少女の頃のクリスマスがふとよぎる。クリスマスの賑わいは背の高いツリーの飾り付けから始まった。細い銀のモールをてっぺんの大きな星から流して飾る。オルガンを弾く若い母。それに合わせて歌う聖歌隊の「きよしこのよる」その中にはおかっぱのわたしもいる。たくさんの歌を覚えた。一年でクリスマスだけにしか歌わない、「きよしこの夜」もそのひとつ。
舞台衣装を着てキリスト生誕の聖劇を演じた。プレゼント交換もあった。なんだか弾けていたあの少女時代。
「演歌もええけど、讃美歌もよろしおますな〜」ルリ子さんの息子さんが目を輝かせた。
ふと気が付くと、歌い終わった父はその足でわたしの所に杖をつきながらゆっくりやってきて小声で言った。
「しゅくちゃん、帰りたい」「え?」「帰りたい」肺活量の少ない声で繰り返す。ここは自分の属する居場所ではないとでも言いたいのだろうか。「疲れたの?」「帰りたい」数瞬前にかれに乗り移ったあの力と輝きはいったい何だったのだろう?
ルリ子さんのことはすっかり忘れているようだ。互いの電話番号も住所も交換することなく、さらに明日も会えるかどうかわからない2人は、挨拶もなしに帰るというの? それはなんでも寂しすぎるじゃない?と思った。わたしは振り返ってルリ子さんを見た。彼女も父のことなどなにも関係ない世界のようにぼんやりとむきかけのミカンを手にしたまま、みつめている。父の姿を追うわけでもなく、寂し気でもなく、窓のそばの暖かい陽だまりの中にそっと一休みしているバレーリーナのように。
看護師の明るい声で何かのゲームがはじまった。
わたしはルリ子さんの息子さんと目で挨拶をかわし、父の手をとって外に出た。とりあえず家に連れ帰り、彼の自室のベットに寝かせた。
仰向けになって横たわる父の眉根が、かすかな苦痛の色を浮かべた。父の魂はいまどこをさまよっているのであろう。ふと、帰りたいその場所は生まれ育った富山なのかもしれない。
唇が少し動いた。
「おとうちゃん、今日のきよしこの夜、とてもよかったよ」
その言葉に父の瞼がビクッと動いた。
寝顔はなにかを語っているようだった。頬にほんのりと赤みがさしている。「きよしこの夜」を独唱したことで、かつての人生の全盛期がよみがえり、90才の体を再燃し、同時にある種のふるさとへのノスタルジーを吹き込んだのかもしれない。
「きよしこのよる、星はひかり・・・」
これが、かれの最後のクリスマス・ソングになった。
(コメント集)
和田さんへ 久留米からはなです
昨年神戸でお会いした際に私のお気に入りのしゅくこさんのエッセー「ラストクリスマスソング」が私たちの40年の中に掲載されていませんが・・とお尋ねしたところ確か〜載っているいるはずですがとのご返事でした。
あれこれ調べてみましたら、確かにありました。
新春放談ゆく年くる年2018〜2019 その5の中に。
願わくばこれを他の寄稿集と同じように単独で掲載していただければと思いました。
麻生さんやしゅくこさんや他の作品と同じようにいつでも読めますからのでよろしくお願いします。
添付の資料はしゅくこさんがブログに流されたものをたまたま私が保存していたものでした。
「ラストクリスマスソング」はブラジルの皆さんにも好評だったと思います。が、再読しようと思っても今のでは見つけることは大変だと思いました。
しゅくこさん、出しゃばりましてすみません。
和田:はなさん 貴重なご意見有難う。添付頂いたしゅくこさんの御尊父への思いを綴った文を以前に読んでいた筈なのに初めて読ませて頂くような新鮮さを持って目を潤ませながら一期に読ませて貰いました。
第38回バーチャル座談会『新春放談、行く年来る年2018−2019』その5を開いて見たら、松栄さんから始まり出石さん、はなさん、昭子さん、しゅくこさん、古谷さん、広橋さん、五十嵐さん、麻生さん、丸木さんが順番に発言されておられ海外に住む者の親との別れが語られており感動しました。これがつい此間、1年半の書き込みだとは思えない新鮮なものでした。皆さんもう一度思い出しながら読んで見て下さい。良く残して置いたものだと我ながら感心する程でした。
URLは、下記です。
https://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=1915
ご依頼の件早速、40年!!寄稿集に単独ではなさんのお便りと共に残して置く事にします。
有難う。
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