日本ブラジル交流協会 玉井義臣会長殿 (写し)藤村 修理事長殿 (公開書状)
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今年第25期生48名の派遣を持って歴史と伝統の有るブラジルと日本の掛け橋的人材養成研修生派遣事業が終了することになり非常に残念に思う者の一人ですが、日本ブラジル交流協会のHPには、あたかもこの派遣事業の一時停止?は、受け入れ側のブラジル日本交流協会の要請、要求による見直し実施の為に来年度の研修生派遣を一時見合わせると発浮ウれていますが、それは日本側の勝手な言い分(阜サ)で問題は、ブラジル入国査証取得に問題があり玉井会長、藤村理事長の本業の超多忙により日本ブラジル交流協会への時間を割く余裕がなくなったことによるものであり、綺麗に手仕舞いしたいとの両首脳のお家に事情に起因していることは明白であり、その幕引きと今後の若い世代への引継ぎをきっちり遣る為に是非とも玉井 義臣会長の来伯をお願いする公開書状を掲載することにしました。
写真は、数年前に平河町の日本ブラジル交流協会本部で撮らせて頂いた玉井会長の普段着のものです。
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日本ブラジル交流協会 玉井義臣会長殿 (写し)藤村 修理事長殿
拝啓
残暑の候、日頃の無沙汰をお詫びします。お元気に大きなお仕事を抱えお忙しく過ごしておられるものと想像します。
藤村理事長も【郵政解散】に振り回され9月11日の総選挙に向かい選挙準備に余念がないものと思います。今回で5選目のベテランの域に達し日頃の活躍で続投は間違いない所でしょうが民主党による政権奪取、日本を変える政治が実現するのでしょうか。ご活躍を期待しております。『私たちの40年!!』HPで展開しておりましたポルトアレグレ総領事館の存続キャンペンには藤村理事長には、国会での答弁をして頂きその効果もあり総領事館からクリチーバ総領事館付属の領事連絡事務所として来年度以後も存続することになり地元民の我々は一先ず胸を撫ぜ下ろしておりますが、落Z的にはそれ程効果が期待されない中どうして総領事館として存続できなったのかとの悔しい思いは残ります。
4月訪日時には、御互いの時間調整が付かずお電話でのお話しか出来ず大変失礼しました。訪日の楽しみの一つが玉井さんとの屈託のない歓談ですが今回はそれが実現せず物足りない気持ちで戻って来ましたが2度お電話お話させて頂いた日本ブラジル交流協会の存続危機が今回のような形で突然襲い掛かって来るとは正直言って想像もしていませんでした。
『私たちの40年!!』HPにもこの25年の歴史と実績のある日本ブラジル交流協会の来年度の研修生派遣事業の突然の中止とHPによる唐突な通知、それに伴うブラジル日本交流協会の山内会長の要領を得ない(明確な理由とその背景を説明することを省いた)一枚の手紙での通知には正直言って748人の研修生を受け入れて呉れた多くの企業、理解者、支援団体、個人に対して礼を欠いたものとなったのではないかと強く感じたのは私一人ではないと信じています。
私の正直な気持ち感想を『私たちの40年!!』HPの下記に2度に渡り記載しておりますが、玉井さんのお目に掛かっていないと思いますので一部抜粋しながら説明させて下さい。
(社)日本ブラジル交流協会の第26期生研修留学事業の一時中止について
http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=789
『日本ブラジル交流協会=青年派遣を一時凍結=制度見直しへ=関係者に動揺』
http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=790
『25年、4半世紀継続して来た交流事業がブラジル移民100周年を前にしてこのような形で頓挫してしまってよいのでしょうか。
元研修生で「ブラジル日本交流協会」の理事として活躍されている戸国さんの「悔しいですね。出身母体の事業が終わってしまうのは。」に代浮ウれる多くのブラジルに住むOBの皆さんの力を糾合する時が来ているのではないでしょうか。
一つだけ気になるのは、「日本ブラジル交流協会」の玉井会長が、災害遺児『あしなが育英会』の会長として神戸と東京にレインボーハウスを建設、ウガンダのAIDES遺児への支援、インド洋津波遺児の支援とブラジル以外の国々にも活動範囲を広げ多忙を極めておられ椎間板ヘルニアで長い飛行機の旅は無理との医師の診断もあり、来たくてもブラジルに来られる体力が無くなっている事、藤村理事長は、民主党の中堅代議士として国会で12年の実績と影の内閣で文部大臣を自認しておられる政治家として油が乗って来ている大事な時期でもあり若い頃から関係のあるブラジルへの思いは変わらないでしょが、具体的な「日本ブラジル交流協会」への関与にどこまで時間を割くことが出来るかです。
もう10年も前に藤村理事長が代議士として初めてブラジルに来られた時にニッケイパレスの地下の割烹「つばき」の座敷の間で行われた歓迎会の席上、「ブラジル日本交流協会」の理事のお一人高野書店の高野さんが開口一番「次回の選挙には是非落選して下さい。国会議員として国政に携わるのも結高ナすが、個人的には2期目は落選してまた日本ブラジル交流協会の仕事に専念して欲しいと思います」との発言に同席していた我々の度肝を抜く発言がありましたが今から思うと正論だったのではないかと思えるから不思議です。
元研修生でニチレイに勤務しておられた山口 達朗さんが輝かしい企業での業績を捨てて後輩の面倒を見ると「日本ブラジル交流協会」の事務局長に就任、頑張っておられるしこの4月から「ブラジル日本交流協会」の事務局長としてブラジルに着任48人の研修生の面倒を見ておられる藤本 明司さん他の去就も研修制度の頓挫でどうなるのかも気になります。
上記諸事情から早急に対策を講じない限り日本ブラジル交流協会の派遣制度は、立ち消えとなり748人のOBを残しブラジル移民史の中に埋もれて行く運命にあるのではないかと危惧する次第です。』
上記は、『私たちの40年!!』HPの記述の一部ですが、日本ブラジル交流協会の玉井会長、藤村理事長の現在の日本における立場、展開しておられるお仕事を勘案するとこれ以上『日本ブラジル交流協会』への関わりは、事実上継続していけない。外務所の認証も受けた団体でありこのまま放置はして置けない。出来るものなら四半世紀、25年の節目の年に栄誉ある幕引きをして綺麗な形でブラジルを卒業したいとのお気持ちが強くなって来ているのではないかと思います。
もしそれが本心であれば25年の輝かしい足跡、今後も日本とブラジルの掛け橋として生き続けて行って呉れる748人の元研修生のOB、OGとそれを支えて呉れた大勢の協力者に対し偽りのない気持ちを伝え【有難う!】を玉井会長から直接伝える機会を作って頂きたいのです。
椎間板ヘルニアの爆弾を抱えておられ長旅を医者からも止められている玉井会長に地球の裏までご足労頂くのは大変垂オ訳ありませんが、ロスかニューヨークで休息をとり何とかサンパウロまで来て頂けないでしょうか。国政に携わっておられる藤村理事長には、年内あるいは来年3月までの来伯は、無理だと思いますし衆議院議員を続けておられる限り100周年祭への参加等来伯のチャンスは訪れると思いますが、玉井さにはこれが最後の機会と思います。斎藤先生、山下さんのお話に共鳴ブラジルに夢を抱き多くの研修生を送り出して来られた玉井会長に何としても栄光ある幕引きをお願いしたい次第です。大病を抱えていた奥様をブラジルに連れて来て上げた玉井さんの事、日本ブラジル交流協会の幕引き、ブラジル卒業の儀式【卒業式】としては、その必要性をご理解頂いているのではないかと思います。
当然、山内会長、藤本事務局長等ブラジル日本交流協会からも玉井会長宛に同じ趣旨の依頼が届いていると思いますが、1976年に「日本ブラジル青少年交流協会」として活動を始められる前の交通遺児育英会の専務理事として交通遺児の「研修大学」実施の頃からもう30年以上のご厚誼を頂いている真のアミゴとして敢えて私からもお願いする次第です。
今後のブラジル研修制度は、若い逞しく育った748人のOB,OGにバトンを渡し世代交代、新しい形で玉井、藤村の志を生かして行けるように見守って遣って欲しいと思います。25年の輝かしい実績と人材を生かし新しい研修制度を立ち上げて行くにはどうしても玉井会長の幕引き【卒業式】が必要となります。これまでこの研修制度に協力して呉れた多くの理解者に今後も宜しくお願いしますと一言玉井会長にサンパウロでお願いして欲しいのです。具体的な今後の諸問題も玉井さん来伯でスムースに且明白に禅譲されるのではないかと思います。是非、御一考下さい。
『私たちの40年!!』HPには日本ブラジル交流協会の話題を纏めた項目がありますが、上述の報告書も寄稿集に公開しております。従い今回の玉井会長宛の私信も敢えて公開させて頂き寄稿集に掲載させて頂き多くの関係者にも読んで頂きたいと念願しております。
時間が許せば私自身が、日本までお迎えに上がるべきですが先ずは玉井会長の来伯可柏ォをお伺いさせて頂く次第です。
最後になりましたがまだまだ残暑厳しい折柄、ご自愛下さい。
敬具
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