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アマゾンに人生を掛ける山岸 照明さん(アマゾナス日系商工会議所会頭)の大きな夢!!
1月にみずほ情報総研の大内 邦彦調査員に同行してMANAUSのフリーゾーン(ZFM)に進出して来ている日系企業11社の工場訪問とヒアリングを実施する機会があった。このマナウスでの日系企業訪問のお膳立てをして呉れたのがアマゾナス日系商工会議所の山岸照明会頭です。山岸さんとは官民合同会議、ブラジル各地の日本商工会議所の全体会議等の席上で南のポルトアレグレと北のマナウス代浮ニしてもう15年以上前から親しくさせて頂いている。
今回マナウスでお世話になったのを機会にアマゾンに生きアマゾンに死す(失礼)男、山岸の半生を記録に残して置きたく山岸さんにもご協力頂いて纏めて見ました。
この3月15日にはJETROの主催のZFM(マナウスフリーゾーン)セミナーにアマゾナス日系商工会議所会頭として参加されマナウスをPR【アマゾンがブラジルの経済を背負って立つ】との信念、夢の実現に立ち向かわれます。
BATEPAPOの交信を中心に最近の山岸さんの心境と山岸さんご自身に書いて頂いた略歴を掲載して置きます。
写真は、マナウス訪問時に撮らせて頂いたものです。


北の山岸さん、陣内さん 皆さん 南の和田です。
山岸さんには、マナウスでの日系企業の工場見学、ヒアリング実施のスケジュール作成、会議所を通じての各社へのアポイント確認、案内役の同行者まで付けて頂き効率良く11社を訪問させて頂き貴重なお話を伺う事が出来ました。みずほ情報総研の大内邦彦調査員も初期の目的が果たせたと非常に喜んでおられます。彼のお礼状は、写真等ともに既に各社に送付させて頂いておりますが、肝心の山岸さんへのお礼が出来ていませんでした。陣内さん、島さんを入れての到着日のブリーフィング、会議所機械関係部会のメンバーの皆さんとの懇談会等至れり尽くせりのアレンジ大変感謝しております。
今回の調査は、経済産業省の外郭団体の日本機械輸出協会の発注によるものとの事で年度内に提出される調査でこれによりブラジル特にZFMの実情報告と今後への繋ぎに役立てればと大内さんも最後の仕上げに取り掛かっているとの報告を受けておりますので付け加えて置きます。

山岸さん、陣内さんのお話をメモっていますが、出来ればお二人のブラジル生活に付きご本人より簡単に纏めて頂けると有り難いのですが。。。写真は既に撮らせて頂いております。

と言うことで今回のマナオス訪問時に色々お聞かせ頂く事が出来た下記の皆さんに付いて『私たちの40年!!』寄稿集に掲載しておりますのでご紹介して置きます。

アマゾン河中流、マナウス市で32年間旅行案内役を務めておられる超べテランガイドの高橋雄一さんのお話を伺いました。
http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=891

1月21日-22日の週末にATS TUR(島 準社長)管理のアマゾン・リバーサイド・ホテルMAINANのジャングル・ロッジに出向く機会があり高橋さんにお世話になりました。何時もの癖が出てアマゾンの自然の偉大さを身に感じながらも生きた人間への泥臭い関心が強く関係者に色々聞かせて貰いました。その第一弾が高橋さんです。たまたま58歳の誕生日をアマゾンで迎えたけい子と同じ1948年生まれで着伯も同じ1962年、北と南に分かれて生きて来たとは云えまるで同船者、同級生のようなブラジルでの44年、何れも重なる時代を生きて来た者同士の気持ちが伝わり意気投合して楽しい週末を過ごす事ができました。
大宅壮一が【緑の地獄】として紹介したベラビスタ移住地の最後の入植者、現在もその移住地にお母さんと弟さん達が住んでおられるとの事。
写真は、アマゾン観光で色々聞かせて頂きながら撮らせて頂いた一枚です。

アマゾン・リバーサイド・ホテルMAINANの共同経営者、辻 佳治さんのお話を伺いました。
http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=886

アマゾンのジャングル・ロッジ・ツアーに参加、楽しい週末を過ごしましたが、MAINAN自然ホテルの現場責任者としてお客さんのいる時はマナウスから自ら出て来られてホスト役を務め色々話を聞かせて呉れます。辻さんの移住者としてのこれまでの生活を聞かせて頂いた範囲で記録に残して置きたいと思います。
今回のアマゾン旅行では、アマゾンに住み着いてアマゾンと共に生活してこられた逞しい移住者のお話を聞くことが出来大変嬉しく思いましたが、その第一弾が辻さんです。
写真は、ホテルの案内の途中、卵から育てた可愛い鰐を掴んで『そろそろ自然に戻してやる時期が来たなー』と説明しながら写真に収まって呉れました。

マナオスFCC do BRASIL社の総務・財経担当重役 佃 拓也さんにもお話を伺いました。
http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=890

今回、マナオスのZFM(ZONA FRANCA de MANAUS=マナウス自由工業地域)の日系進出企業11社を訪問させて頂きましたが、マナオスにあるホンダ大国(ブラジルの2輪車の84%のシェアーを握り年間100万台を生産するホンダとそれを支える11社の日系二輪車部品工場)の一角を担う二輪車用クラッチを製造しているFCC社を訪問させて頂きましたが、アテンドして呉れた佃さんは、私と同い年の1940年7月2日生まれの日本からの移住者で1955年に14歳の時にご家族と共に大フォードが開発したゴム園のフォードランヂア(サンタレン市近郊のベルテーラ村)に55家族と共に入植された方であることが判明しお話を伺わせて貰いました。
写真は、FCC社訪問時に撮らせて頂いたものです。

アマゾン開発に夢を託した高等拓殖学校生(高拓生)の子孫【高拓会】の丸岡会長のお話を伺いました。
http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=892

マナウスでの日系企業訪問ヒアリング実施2日目に道案内も兼ねて同行頂いたマナウスの日系商工会議所の専務理事をしておられるROBERTO TEISUKE 丸岡さんに大変お世話になりましたが、長い1日を終えマナウスの日本食店でビールを飲んでいる時に丸岡さんのお父上は有名な高等拓殖学校のピークに当たる3回生との事で1932年にパリンチンスの近くのビラ・アマゾニアに入られたとの話に飛び色々聞かせて頂きました。高拓生は、第一回生が1931年6月20日ビラ・アマゾニアに到着してから1937年の7回生まで242人のアマゾン開拓に夢を託した若い移住者を送りだした。丸岡ロベルトさんは、1947年にパリンチンスの近くのジュリチで生まれたとの事で現在は、商工会議の専務理事として活躍されている傍ら高拓会の2代目の会長さんをしておられるとの事です。
写真は、2代目【高拓会】会長の丸岡ロベルトさんです。

マナウスの山岸です。

お礼を云わないといけないのは 私の方です。

この 人里離れたマナウスの情報を皆様にお伝えするのは、大変難しい事ですが、先ず みずほの大内氏を 通し 多くの方にマナウスの情報を伝えて頂き、そして 又、和田さん の“私たちの40年!!!” に当地の移住者の声を 載せて頂き 大変感謝致して居ります。
いささかでも、お役に立てたとすれば 望外 の喜びであります。

アマゾンは 1900年初頭ゴムの生産で ブラジルの経済の牽引車の役目を果たした時代がありました。ゴム景気が去った後、アマゾナス州は材木、鉱物等の天然資源を乱獲する事なく、幾多の艱難を乗り越え1960年末よりのZFMの発足後 40年を経て工業基地として生まれ変わりました。この 40年の重みは 重要な経験をアマゾンに植えつけました。
今や、税制恩典のみを頼りに地域開発を望む時代は終わり、先端技術を屈指し、自然環境を損なう事なくアマゾンの持つ天然資源の持続的開発を目指す事に依り、潜在するアマゾン独自の経済力の開発が可狽ニ成るでしょう。この状況に至る道程におけるZFMの工業の果たした貢献は 計り知れません。 そして其の工業は益々進む 統合市場への生産基地としての重要な役目を担う事に成ると思います。
上記の通り 殆ど手が付けていられない無尽蔵と言われる 木材資源、鉱物資源、そして バイオテクノロジーの発展に伴い出現するバイオ産業資源等々、万年“未来の宝庫”の “未来” が段々と見えて来た様です。

再度、アマゾンがブラジルの経済を背負って立つと信じています。
和田さん、これは私の“ 夢” ですが、夢ばかり見ていると “信” に至る様です。

私は 1969年3月マナウスの原始林の端っこで 一台のトラクターが整地の為に動いているのを見て、“まるで、一寸法師が巨人に立ち向かっている” 様だと思いました。此処に40年後 一大工業団地が生まれるなどと、想像出来る術も有りませんでした。以来、一生懸命ZFMと一緒に働いて来ました。 この時の 光景と 現在のZFMの将来のビジョンを比べると、今の “夢” はもう直ぐ手の届く処にある様に思えます。
和田さん、やっぱり私の“夢”は “井の中の蛙” の戯言でしょうか。

山岸 さん 皆さん 南の和田です。

早速のご返事有難う御座います。
1969年の一寸法師のマナウスの原始林との戦いから40年間一環してマナウスのZONA FRANCA de MANAUS(ZFM)と共に生きて来られた山岸さんには原始林が人口180万人を擁する一大工業都市に生まれ変わったマナウスの発展に寄与して来られ、11社の傘下の日系企業を持ちブラジルの2輪車の84%のシエアーと年間100万台の2輪車を生産するホンダ大国、ヤマハ、SONY、PANASONIC、サロンパス、コニカミノルタ(複写機)等々アマゾナスの日系商工会議所を手中に収め指導力を発揮されている山岸さんは、夢を具現されているご立派な【井の中の蛙】だと思います。
大洋でゆったりと泳ぐ鯨にも南極のペンギンにも魅力を感じますが、小さくても自分の井戸を持ち泳げる場所があれば【井の中の蛙】でよいではないですか。
胸を張って南の和田ですと名乗れることで良しとしている私と比べると北の山岸さんは、マナウスの山岸として自他共に許す大きな井戸の蛙だと尊敬しております。
今後ともマナウスの環境と共存できる形での発展に、再度アマゾンがブラジルの経済を背負って立つように牽引車として夢を追い続けて下さい。

和田さん、
和田さんに激励して頂き、元気が沸いて来ました。
おこがましく、偉そうな事を言いますが これからもアマゾンを世界の舞台に登らせるべく努力します。
本当ですネエー、小さな井の中でも 夢を持てる事は 幸せな人生と思います。
マナウス 山岸

マナウスの 山岸です。
今年もJETROさんの お世話で 3月15日東京でZFMのセミナーを開催して頂く事に成りました。
今回はSUFRAMA、 州企画局 等アマゾナス日系商工会議所三者に依り ご説明させて頂きます。
二つのお役所からの 講演者は何れも 担当技官で、総論的な 事は簡単に 実務面の各論を少し詳しく説明する嵐閧ナす。

私に 頂いたテーマは “各国企業によるマナウス。フリーゾーン戦略”と言う とてつもなく 大きなテーマです。
色々と細部の打ち合わせの上 内容の選別に頭をシボッテ居りますが、今回は思い切って ZFMの抱える 各種の問題点を挙げ、其の対応策をご説明する事を考えて居ります。何時も、良い事しか話さないのですが、ブラジルの経済の好転より、全てが好転しているかと、言うと、決してそうではなく、進出を考えておられる企業の皆様にこの機会を捉え、実情を披瀝する事が必要では無いかと、考えます。


山岸 照明さん御自身が纏められた略歴です。
生年月日 1934年 12月 4日
慶応義塾大学 法学部政治学科  1957年卒

力行会 第105期生  1963年8月15日 サントス丸 サントス着
到着直後、力行会より 委託された 図書を運び、マナウス、ローライマ。
ポルトベーリョ、アクレ の各 植民地を訪問。アマゾニアとの 出会い。
聖市に舞い戻り、色々と計画は夢見ていた物の、結局何も 物にならず、当ても無く ブラブラとヒッピーの様にさまよい歩き、飲んだくれ、若気の至り では説明できない 行状ばかり。食べるのに困り、行商は元より、何でも仕事になればと、働き出す。

それでも、気を取り直し 知り合いの弁護士に紹介されて、当事建設中のマナウスの
アマゾナス製鉄所に労務管理の責任者で就職し、マナウスへ ヒッチハイクでたどり着く。
漸く たどり着いた SIDERAMA−SIDERÙRGICA da AMAZONIA S/A の建設現場は
リオ ネグロ と リオ ャ潟c塔Gスの 合流点を見下ろす、高台に有る。
その雄大な 景観を見た時の感激は 今でも鮮明に蘇って来る。私の人生は其の瞬間に生まれ変わった。1969年 3月の事である。
SIDERAMAは 労務管理の専門家を聖市に探しに来ていた。
私は 法学部出身の労働法の専門家として紹介された。兎に角 お腹を空かしているので、“ハイ、そうです”と 答えてしまった限り ボロは出せず、先ず夢中で CLT を勉強した。後にも先にも あんなに必死で勉強した事は無い。

当事 会社には 2500人の人扶が働いて居て、常時70件 =@100件の訴訟が労働裁判所に入っていた。私は、“為せば為す”をモットウに 立ち向かった。
毎日の裁判所通いで段々と 裁判対策を会得し、都合の悪い時は “言葉が分らなく成り” 急場を切り抜けた事は 枚挙の暇もない。
其の内、いつの間にかポルトゲースの分らない日本の弁護士に成ってしまい、当初付いていて呉れた 会社の弁護士もいつか 居なくなってしまった。当事、裁判官補佐だった若い裁判官の卵と大変親しくなった。彼は出世し、現在地方労働裁判所のプレジデンチを何期も努めているが、今でも私を労働問題の弁護士と思っている。さしもの、労働訴訟も少しずつ減り出し、三年後には年間 7件(内 4件勝訴)となり、とうとう尻尾を出さずに押し切り、“ポ語の分らぬ弁護士”は有名に成っていた。

あの頃の経験はどんなにその後の人生に役立ち今でも、教訓を反芻している。
其の後、70年代に入ると SHARP、GENTEK等の日本企業がZFMの工業団地への進出を始め、当事工業団地唯一人の日本人だった私は、色々とお手伝いをする様になり、73年にGENTEKに就職する事に成った。
その後、何度か仕事に手を出し、失敗もしているが、1980年電子測定器メーカーの ICEL に工場長として雇われ1996年迄、勤め、1997年1月より現在の YAMAGISHI コンサルタント事務所を開設する。

商工会議所との出会いは、1987年会議所の発会式の時 ICEL より出席し、個人会員として 加わった。以来今日に至っているが、私は SIDERAMAに就職出来なければ、恐らく社会の落伍者に成って居たと思う。何事も努力と誠心誠意を貫く事で、自ずと道が開かれる事を教わった。

私も、もう老人の仲間入りをしているが、日本の皆様、そして マナウスの社会が私を頼って下さる間は、残された時間を一生懸命働く覚悟をしている。

山岸照明   Manaus, 27 de Fevereiro de 2006




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