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船、あるぜんちな丸第12次航から40年を経過して【第六部】
あるぜんちな丸第12次航の二等航海士吉川誠治さんの寄稿文第六部です。今回は、商船三井海上従業員の変遷他、*2.船内設備も様変わり ◎ 居住設備 ◎ 自動化設備と続きます。写真は、コンテナー船 【MOL ADVANTAGE】66,559G/T 商船三井の新鋭コンテナーせんです。5900個積みで日本・ヨーロッパ航路に就航しています。

船、あるぜんちな丸第12次航から40年を経過して【第七部】
あるぜんちな丸第121次航の二等航海士、吉川誠治さんの寄稿文第七部です。今回は船内設備の様変わりの最後航海設備ですが、40年前には、存在しなかった多数の航海計器特にGPS(Global Positioning System)による宇宙空間に打ち上げた28個の衛星を使用した現在位置確認システムが導入されています。このように航海設備もあるぜんちな丸当時から見れば、時代と共に近代的な装備がなされ様変わりいています。しかし、航海の基本は今も変わらず、直接肉眼で見るルック・アウトによる人間の判断が何よりも重要です。少なくとも私が生きている間、いや今後20年のうちに無人で航海するような時代は到来しないでしょうと語っています。写真はバルク専用船【RAIJU】D/W 172,492 K/Ton パナマ船籍で商船三井のバラ積み専用船です。鉱石、石炭、穀物等各種バラ積み貨物を積載することが出来ます。

船、あるぜんちな丸第12次航から40年を経過して【第八部】
あるぜんちな丸第12次航の二等航海士吉川誠治さんの寄稿文第八部です。今回は、何故日本船は丸という船名をつけるのか?を説明してくれております。船はまさに海上に浮かぶ城のようなものだから“丸”を付けるようになったそうです。最終章の【神戸港の今】1. 古い港の部分は現在も現役でパイロットとして大阪湾を我が庭のように縦横無為且細心の注意を払って大型船を水先案内しておられる経験に基づく神戸港の紹介文です。写真は、1995年に神戸を襲った大震災の傷跡、震災による港の被害状況でメリケン波止場の小型舟艇の乗り場の惨状。現在も震災記念として現状保存されています。 


船、あるぜんちな丸第12次航から40年を経過して【第九部】
あるぜんちな丸第12次航の二等航海士の吉川誠治さんの寄稿文第九部です。今回は、2. 神戸空港 3. 明石海峡大橋 4.新しい港の部分 が紹介されています。建設賛否両論の神戸空港、夢の架け橋と呼ばれた明石海峡大橋の完成(1998年)神戸の新しい港の部分等興味深い神戸港にまつわる話題が紹介されております。写真は明石海峡大橋:1998年4月5日に開通した明石海峡大橋、中央橋脚間のスパンは、1990.8メートルで、世界最大の吊り橋です。阪神大震災が発生した時には工事中で、海峡中央海底を走る野島断層がずれたため、スパンが0.8メートル伸びて上記の長さになりました。写真は、その雄大な夢の架け橋そのものです。

船、あるぜんちな丸第12次航から40年を経過して【第十部】
あるぜんちな丸第12次航の二等航海士を勤められた吉川誠治さんの寄稿文第十部最終編です。5.がんばれ神戸港 では震災後地盤沈下が激しい神戸の港の繁栄が過去のものとなることを一番悲しんでおられるとの事で古い世代の船乗りの多くは神戸港を心の故郷として歩んでこられたとの事で現在も神戸に住んでおられる吉川さんの切実な「頑張れ神戸港!」が耳に届いて来そうです。我々も日本最後の地神戸はそれだけに忘れ難い土地であり私も神戸に生まれ神戸に育った者の一人して吉川さんに唱和して神戸頑張れ!を叫びたい気持です。写真は、移住Sセンターの裏山にある諏訪山公園から見た古い港の部分です。中央の高いビルはメリケン・パークにあるホテル・オークラ、その左上が神戸港第2航路入口(大関門)で、前方に大阪湾が拡がっています。貴重な写真と渾身を込めて書いて頂いた寄稿文本当に有難う御座いました。 

最高のクリスマスプレゼントとして受け取ったボリビアの同船者よりのお便り!!
昨年12月24日クリスマスイブの午後、し残した仕事を整理に事務所に出たところ最高のクリスマスプレゼントとも言えるボリビアの同船者本多桓三郎さんからのお便りがFaxされて来ておりました。八方手を尽くして知人、友人に頼んでいた矢先でもあり椅子から転げ落ちんばかりの喜びを感じたのを覚えております。すぐその場で返事を書き喜びを伝えました。その最初のお便りの一部(同船者名簿等を割愛したもの)を転載しておきます。写真は適当なものが見つからずサンタクルス市のカテドラル(大伽藍)の見える公園の写真を転載しておきます。

ブラジルに健在 阿波の武将大嶋氏・末裔 関ヶ原の配陣図や古書鈴木さん徳島県文書館に寄贈。【パウリスタ新聞より転載】
1996年7月31日のパウリスタ新聞(現ニッケイ新聞)及びその記事のベースになった徳島新聞の切抜きを昨年サンパウロ市近郊のコチア市に住んでおられる鈴木章子さんの大きな仕事場を兼ねたお宅を訪問してお話をお聞きした時に預かった新聞の切り抜き記事です。同船者の中ではコロニア社会で著名な陶芸家として活躍されている鈴木さんの戦国武将大嶋氏の末裔として受け継がれてきた古書其の他を徳島県文書館に寄贈されたとの事で興味深いニュースをご紹介します。写真は、昨年鈴木さんを訪ねた時に撮らせて頂いたものです。尚、ご主人で画家の鈴木幸夫氏も私たちの同船者です。

40年前の奉加帳見つかる。早稲田大学海外移住研究会実習研修生派遣。
古い書類、書籍等は、引越しの度に処分され殆ど残っていませんが、今回の『私たちの40年!!』発刊計画もあり探していたら黄色く変色した40年前の奉加帳が見つかりました。これは私があるぜんちな丸第12次航の一員として移住船に乗り込みブラジルに渡る際に旅費の一部を浄財として理解ある人達に援助して貰う目的で書かれたもので五百円から壱萬円までの寄付者の名簿が残されている。今見ても署名者がどの様な方達なのか定かでないが、多分顔の広かった母親が息子自慢も兼ねて協力を頼んで回ったのではないかと想像する。その母も私が2度目に渡伯した1965年の年末に亡くなったので問い質すことも出来ない。歴史に埋没した黄色く変色した当時の奉加帳の私の写真だけが若々しい。

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