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【T字戦法ー日本海海戦(日露戦争)】 古谷 敬治さんの寄稿です。
数年前にバテパッポと云うリオの山下さんが主宰しているメ−リングリストに書き込まれた古谷さんの「東京裁判私観」を4回に分けて『私たちの40年!!』寄稿集に収録させて頂いていますが、今回この古谷さんの【T字戦法ー日本海海戦(日露戦争)】が最初に投稿したものだとの事実が判明しましたのでこれも寄稿集に収録させて頂く事にしました。「坂の上の雲」の小説、NHKの年末企画としての2年掛かりの放映で元気のあった明治の日本、特に秋山真之作戦参謀の活躍に胸を躍らせましたが、古谷さんの歴史物、史実を探る姿勢に大いに共感する所があります。これからも昭和から現代に至る日本史の新しい事実、埋もれている歴史を探り面白いテーマを提供して呉れる事を楽しみにしています。『私たちの40年!!』MLメンバーにも歴史に造詣が深いメンバーが多く大いにBATEPAPOして欲しいと願っています。皆さんのコメントも一緒に収録して置きます。
写真は、サンパウロに置ける『私たちの40年!!』MLメンバーのOFF会で撮らせて頂いた古谷さんの近影です。


T字戦法ー日本海海戦(日露戦争)

日露戦争は申すまでもなく、日本が国運を賭けた大戦争でした。「坂の上の雲」でご記憶の方も多いと思います。
日本海海戦は1905年05月27−28日、対馬沖で東郷平八郎大将率いる帝国海軍連合艦隊とロジェストヴエンスキー中将が指揮する露国バルチック艦隊で繰り広げられた海戦でした。損失は、日本水雷艇03隻沈没のみ。露国は16隻(戦艦04、他10)が激沈、自沈05隻、拿捕されたのが06隻。戦死者日本117名、露国4,830名。要するに、帝国海軍の完勝でした。
日本海海戦の勝因はいろいろ挙げられておりますが、其の一つに掲題のT字戦法があります。当時、艦隊の砲撃は、敵味方ともに単縦陣に艦列を組み、敵艦とすれ違いざまに舷側砲で撃ち合う(反航戦)のが通例でしたが、日本海海戦での東郷艦隊は敵前で、縦列隊形の儘90度方向を変え、横断する格好で敵先頭艦の前を通過する(敵前10千米で先頭艦が回頭を開始、六千米で全艦回頭終了)戦術を採りました。これは敵前大回頭とも呼ばれ、一見危険極まりない戦術でした。
この事に触れた書物は多くあり、中にはこの戦術は東郷司令長官が敵艦と遭遇する直前に閃いたものだとか、秋山真之作戦参謀が編み出した新戦法だとか、いろいろ言われていましたが、実は、これは秋山真之の五年先輩に当る山屋他人中佐が明治33年海軍大学校で講義した「海軍戦術」の中の「円戦術」を原型にしたものである事が、戦後30年経ってから判明しました。司馬遼太郎が「坂の上の雲」を執筆した後の事です。「円戦術」には次の如く記載されております。
戦隊ハ最モ攻撃シ易キ敵ノ一隊ヲ選ビ、其ノ列線ニ対シテ左記ノ如ク{丁}字ヲ描キ、可及的敵ノ先頭ヲ圧迫スル如ク運動シ、且臨機適宜ノ一斉回頭ヲ行ヒ、敵ニ対シ丁字形ヲ保持スルニ力(ツト)メントス・・・
日露戦争終結後六年の歳月をかけて、軍令部は「極秘明治37・8年海戦史」を編纂しました。全150巻に及ぶに日露海戦の正史です。此処に、山屋の「円戦術」や、それを秋山が一部修正し、T字戦法として実戦で応用したことが記述されております。これが、宮内庁の書庫に保管された儘、第二次大戦後の占領軍の接収も免れ、戦後30年経ってから発見されたものです。この辺の経緯は、戦前の海軍将校で、戦後防衛大学の教授を勤めた野村實氏が自著「日本海海戦の事実」で述べております。以下はT字戦法の解説です。
此れは即ち、味方は単縦陣を組みつつ、適切なタイミングで90度回頭し、敵の先頭艦の位置を中心とする円弧上を進みつつ、方向が正横、距離が一定と言う砲撃上の最良の条件を占有しようとするものである(算数の分度器を半分(90度)にした形を想定すれば、この説明がご理解願えると思いますー古谷註)。味方は、全ての主砲と片側舷側砲の全部が、一定の角度、一定の距離をもって、敵の先頭艦に集中砲撃を加える事が出来るのに対して、敵は砲撃し得るのが前部の主砲のみ、且つ照準が絶えず変化するなかで不確実な砲戦に甘んじなければならない。発射可能な砲弾数は彼我の間で倍以上の差があり、着弾の正確度においても比較にならない差がある。
連合艦隊がT字戦法を採り、各艦が敵先頭艦「スウオーロス」に砲撃を集中した結果、スウオーロスは火だるまになり、操舵手が戦死。舵がかしいだため、艦は斜航し、二番艦以下も随行したので、被害が余計大きくなったと言う記録があります。
海軍大学校が、日清戦争後、明治29年04月に再開された時の校長が東郷平八郎で、再開後最初の学生が山屋他人でした。「円戦術は」は山屋の卒業論文で、東郷は其の時点で、「円戦術」を読んだ筈です。又、東郷は非常に勉強熱心な校長で、学生に混じって、よく後輩教官の講義を聴講したと言われています。東郷は、連合艦隊司令長官を拝命した際、山屋の「円戦術」を思い出し、実戦での応用を研究する様作戦参謀の秋山真之に指示したものと思われます。
更に、もう一点、「坂の上の雲」と異なるのは、バルチック艦隊の針路予測でした。小説では、参謀達が、バルチック艦隊の通過海峡は、対馬か、津軽か、宗谷かと迷っているのに、一人東郷司令長官は「敵は疲労困憊している。当然、最短距離を走る」と海峡を対馬と断定した、と記述しています。しかし、「極秘海戦史」によれば、軍令部より各指揮官に、(迎撃海峡を指示した)密封命令書が手渡されており、東郷の指示があれば開封する様指令を受けておりました。
バルチック艦隊がバシー海峡を19日に通過したとの連絡があったきり、一向に姿を現さぬバ艦隊に、痺れを切らした連合艦隊が明日にでも密封命令書を開封しようかと思っていた矢先に、27日未明、信濃丸より「敵艦見ゆ。東シナ海を北上中。」との一報が入りました。それと相前後して、「バルチック艦隊は、石炭船(当時は蒸気機関)を上海で切り離した」との連絡があり、これで東郷は、敵艦はウラジオストックへの最短距離を航行すると判断、対馬海峡で迎撃態勢を整える事にした訳です。密封命令書には「迎撃海峡は津軽」と書いてありました。信濃丸の通報が一日遅れるか、東郷が開封指示を一日早めておれば、連合艦隊津軽に向い、バルチック艦隊を取り逃がした事になり、歴史は大きく変わっていたと思われます。将く、紙一重の差でした。
以上は月刊誌「現代」2005年06月号を参照しました。
海軍大臣山本権兵衛は、連合艦隊司令長官に、下馬評を覆し、東郷平八郎を任命しました。明治天皇のご下問に対し、山本は「東郷は運の良い男です」と奏答したと言われております(実際は、候補者の中で、作戦計画書の出来が一番良かったからですが・・)。
上述の信濃丸の通報の一件を思うと、東郷司令長官は運の良い軍人であったと言えるかも知れません。
陸軍は奉天会戦(奉天城攻略)で戦争を終結しました。此処にも運の良さが付きまとっておりますが、話が長くなりましたので、これは別の機会に譲ります。
何れにせよ、日露戦争は、紙一重の差、薄氷を踏む思いの勝利であったに拘らず、小が能く大を倒したとか、黄色人種が白人種をやっつけたとかで、世界中に大きな衝撃を与えました。この戦争で、国家財政が破綻の危機に瀕しましたが、予想外の勝利に国中が舞い上がり、後世の歴史に大きな
以上

コメント集
古谷:拙文「東京裁判私観」は、実は山下さんのBatepapoへの投稿の二作目でした。一作目は、別添の「T字戦法 日本海海戦」です。ご興味があれば、ご一読願います。
歴史を齧っていて面白いのは、定説が覆される事です(私は大分臍曲りかも)。
ノモンハン事件。これは一般的に日本軍がソ連軍に屈辱的な大敗を喫した戦いとして知られています。生き残った連隊長が悉く自決を強要された程です。処が、Glasnost(グラスノスチ・情報公開)で、ソ連側の資料が公開される様になり、実は戦死・傷兵の数はソ連側の方が多かった事が判明しました。
作戦を指揮したジューコフ大将が、後任の司令官が戦果を事実通りに陸軍省に報告しようとしたのを、己の恥辱になるとして、それを差し押さえたため、被害が過少に報告されたためです(後に、ジューコフは欧州戦線に親輔されたので、報告書内容が事実通り修正された経緯有り)。
北支事変の発端となった盧溝橋発砲事件も又然りです。
其の内に、定説を覆す新説が出てこないか、それを楽しみにしています。

和田:古谷さん 「T 字戦法 日本海海戦」読ませて頂きました。
以前にBatepapoに投稿しておられたのですね。覚えていませんでした。
今回、改めて『私たちの40年!!』寄稿集にも収録して置きたいと思います。
今晩OFF会でお会いした時に写真を撮らせて下さい。

古谷:麻生さん 昨晩は色々お付き合い戴き有難う御座いました。
ご要求のありました拙文「T字戦法 日本海海戦」を別添でお送りします。
これを開いて、お読み願えないか、トライして見て下さい。それでも駄目
なら、別のコピーをトライします。

麻生:古谷さん 添付資料確かに受け取りました。オブリガード。
T時先方の利点は砲全てが45度で発射できますが、回転点に敵砲火が集中されて全滅のリスクがあります。
バルチック艦隊を撃滅した秋山参謀は瀬戸内海の村上水軍の戦法も研究してT字戦法を取り入れたようです。
昨日は貴重な戦争歴史観を拝聴でき、有難う御座いました。戦争は壮大なドラマ、政治の道具、人類の本能
でもあり、人類存在する限り絶対に無くなりません。これからも、若輩に宜しく御教示して下さい。

古谷:麻生さん ご承知の通り、日本海海戦は帝国海軍の圧勝に終わりました。その勝利の陰に以下の如きお膳立てがありました。
1) 陸軍第三軍(乃木大将麾下)に依る旅順要塞攻略
2) 日英同盟に基づく英国の露バルチック艦隊の航行妨害
当地、露国海軍に四艦隊がありました。ウラジオストック、旅順、バルチック、黒海。此の内、黒海は内海であり、艦隊活動は内海に留まっていました。ウラジオストック艦隊は、上村中将の第二艦隊に依って、殲滅し、旅順艦隊は、第一艦隊に依って旅順港内に封じ込められていました。それで、バルチック艦隊は旅順艦隊を救出し、日本海軍を殲滅する為に、遥々日本海まで大遠征を行う事になった訳です。当時は、戦艦と言えども蒸気で動いていましたので、航路途中で、何回も石炭と水を積み込まねばなりません。それを英国は、各寄港地に、積み込みを徹底的に妨害する様指図したのです。この所為でバルチック艦隊の日本海到着に七カ月も要したので、艦内の士気が著しく低下したと言われています。
露旅順艦隊は湾内に封じ込められていましたが、未だ健在でした。バルチック艦隊が日本海に到着すれば、日本帝国海軍は、挟み撃ちに遭う危険があり、先に旅順艦隊を殲滅して置く要がありました。旅順攻略に就いては
下記のうURLをご参照下さい。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%85%E9%A0%86%E6%94%BB%E5%9B%B2%E6%88%A6
乃木第三軍の旅順攻略で、湾内の旅順艦隊は全滅したので、東郷連合艦隊は、日本海でバルチック艦隊を迎撃し易くなりました。後門の狼が無くなり前門の虎に集中できる様になったからです。決戦に備え、連合艦隊は、黄海で猛訓練を行いました。東郷総司令官は全軍を鼓舞する為にかの有名な標語「百発一中の砲百門は、百発百中の砲一門に如かず」を作りました。
日露戦争の勝利は、日英同盟に負う処が大きいと上述しました。シベリア鉄道の開通で、英国が中国に持つ権益を侵される事を恐れ、戦争代理人を期待して、日本と同盟を結びます。他方、日本も、露国の南下で、朝鮮半島に持つ権益が危殆するのを恐れ、小村寿太郎駐露公使が、ウイッテ蔵相と交戦半島南北二分支配案を交渉しますが、ウイッテに一蹴されます。その小村が外相に就任すると、桂小五郎首相は伊藤博文等の慎重論を抑え、シベリア鉄道の複線化の前に、開戦を閣議決定しました。
英国ですら、購入を躊躇った日本の戦時国債を積極的に買って呉れたのがユダヤ財閥のジェイコブ・シフでした。戦費の資金調達に就いて、添付資料をご参照下さい。これで、日本は辛うじて戦争を遂行できました。
世界の大方が、日露戦争で日本は負けると予想しましたが、それを裏切って(?)で、日本が勝てたのは、英国・米国の協力・支援があったからで、これが後年の大東亜戦争と大きく違った点です。

麻生:古谷さん ユダヤ金融帝国の支援で日露戦争を勝てた事は異論の余地はありません。勝った後、アメリカは日本を警戒し始め、太平洋戦争の遠因となって行きました。やはり、白人でキリスト教徒以外は自由も平等も博愛も枠外だと云う事でしょう。それにしても、ロスチャイルドを頂点とするユダヤの金貸しは、戦争と革命を演出し、大儲けをしています。アメリカも人口の2%に満たないユダヤ系に経済を握られて、ドル通貨発行も政府が出来ず、連邦準備銀行なる私的ユダヤ系銀行団が代行しています。ユダヤ国家と云えましょう。それに、逆らったら、ケネデイー大統領のように公開処刑されてしまいます。又、イスラエルにたてついだら、アメリカの武力でコテンパーにされる事は、湾岸、アフガンの戦争で明白です。今度はイランがヤバイのでは。

古谷:麻生様 日露戦争後、日米関係が悪化したのは、小村寿太郎外相が、満鉄共同経営を謳った小村・ハリソン覚書を破棄したのを、ルーズベルト米大統領が不快として、対日外交姿勢を変えた事に起因しています。対日移民法の改悪、日米通商航海条約の破棄で、対華経済支援の強化に逆行して対日経済制裁が徐々に強まり、日本は資源を求めて南方に進出せざるを得ない様に追い込まれて行きました。
イランは、3.5%の濃縮ウランを750KG、20%を36KGを生産したと言われています。問題は、イランのウラン濃縮工場を地下深くに設けており、イスラエルの戦闘機でこれを爆破出来るかどうか、この辺が微妙です。
原爆生産に必要なウランの濃縮度、数量は幾らなんでしょうか?

麻生:古谷様 満鉄共同経営の覚書を破棄したのが日米関係悪化の直接原因である事は確かですが、1898年の米西戦争でフィリッピンを領有してから、アメリカの西進政策上、日本は邪魔になり、1919年にオレンジ計画を立案してから、はっきり日本は仮想敵国になりました。オレンジ計画こそ、太平洋戦争の遠因だと思います。

古谷:麻生さん オレンジ作戦が日米開戦の下敷きになっていたのは仰せのとおりですが、下記のURLに見られる如く、時代の変遷に連れて内容が変って行っています(当然の事ですが)。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B8%E8%A8%88%E7%94%BB

以前に申したと思いますが、鉄道王ハリマンはユーラシア大陸・米大陸を鉄路で、太平洋・大西洋を海路で、世界一周路を開設する壮大な構想を持っていましたので、シベリア鉄道と不凍港を結びつける為に満州に拠点を持つ事が不可欠でした。
小村外相に依って、桂・ハリマン覚書が破棄されましたので、怒ったルーズベルトが張学良と組んで、満鉄を妨害する為に平行線設置に手を貸したのは、飽く迄も満州に拠点を持つ事に拘ったためでした。
別件ですが、原爆製造に必要なウランの濃縮度は90%ですので、現在のイランのウラン濃縮度が20%では、まだ道遠しの感じがします。イランの濃縮度が危険水準に近づくと、イスラエルは軍事行動を起こすと思います。

麻生:古谷さん 
ーハリマン構想=小村外相が破棄した理由は何でしょうか。満州での日本の権益を独占するためだったのでしょうか。
ーURLが全く開けません。
ー添付資料日米開戦も開けません。再送願います。
ーウラン濃縮=原子力には全くの門外漢ですが、90%濃縮には、相当の時間がかかるものですか。北朝鮮のように
 プラトニウムは手掛けないのでしょうか。イスラエルは周辺国の核施設は全て空爆して破壊しています。今でも アメリカが止めなければ、イランを空爆するでしょう(地下施設は通常爆弾ではトラスター爆弾でも困難ゆえ原爆を使用するかも)。アメリカが本格介入したらロシアが黙っているでしょうかね。

徳力:古谷様、麻生さま Off会ではゆっくりお話でず、まことに残念でした。
麻生さんに送付されている「ハリマン構想」「日米開戦」「東京裁判」など
古谷さんの書かれたものを私にもお送りください。
古谷さん、麻生さんのお二人より日本の歴史を、ことに、日清日露戦争以降の
日本のあり方をどのようにお考えになっているのか知りたいと思います。
目的は日本人の自虐史観がどのようにして形成されていたのか、またそれを修正するための方策はどこにあるのかを探りたいのです。
よろしくご指導お願い致します。

和田:徳力さん 古谷さんが書かれた【東京裁判私観】に付いては下記URLで『私たちの40年!!』寄稿集に4回にわたり掲載されています。又日本海海戦の「T字戦法 日本海海戦」もOFF会のおり写真を撮らせて貰ったので寄稿集に収録する予定ですので暫くお待ち下さい。

【東京裁判私観】  古谷さんの東京裁判の真の意味を追求する力作(その1)
http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=1215

【東京裁判私観】古谷さんの東京裁判の真の意味を追求する力作(その2)
http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=1216

【東京裁判私観】古谷さんの東京裁判の真の意味を追求する力作(その3)
http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=1218

【東京裁判私観】古谷さんの東京裁判の真の意味を追求する力作(その4)
http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=1224

古谷:麻生さん 小村外相が、桂・ハリマン覚書を破棄したのは、四万人、五万人の戦死者の血で贖った満鉄の経営権を譬え半分とは申せ、むざむざ米国に譲渡するなどとは国民感情が許さないと言うものでした。ポーツマスでの終戦協定交渉で、日本は露国より賠償金を一円も取れなかったのが、小村外相には応えたのかも知れません。
そもそも、ルーズベルト米大統領が、日露終戦協定斡旋に乗り出したのは、昨日申しましたハリマンの世界一周路線建設案を後押しする事で、支那大陸進出の足掛かりを確保する為でした。
米国の満鉄共同経営案を日本が飲んでおれば、譲渡金で戦時国債の買戻しも出来たでしょうし、米国に依る満州国の承認も得られたと思います。更に、米国の仲介があれば、日・支関係があれ程悪化する事が避けられたのではないかと思います。然らば、支那事変、太平洋戦争が起こらなかった可能性はあったと思います。
昨日、仰ったオレンジ作戦。要は、極東に於ける日米の棲み分けの問題と思いますが、満鉄の共同経営を軸に、米国が日本の満州建国を認め、逆に米国が中国に橋頭堡を確保出来れば、日米間の摩擦は起らなかったと思います。
アヘン戦争で、英国が清国より香港島の割譲を受けたのを、きっかけに、仏・独・露国がそれに便乗して、各地に租借地を設けました。小国日本ですら、満州に拠点を設けたのですから、出遅れた米国が焦ったのは無理もありません。先行する日本を蹴落とす為に作ったのがワシントン会議の九か国条約でした。
華北分離工作を上手く処理できなかったのが原因で、北支事変が起こり、さらに支那事変と戦火が広がって行った訳ですが、この支那事変は決して日本・中国(蒋介石)の一対一の戦いではなく、米・独・ソが蒋介石を支えたのですから、一対四の戦いでした。
日ソ中立条約と国共合作が無ければ、スターリンは極東赤軍数個師団を欧州に回せたかどうか?独ソ戦線に大きく影響したのではなかったかと思います。
話は変わりますが、仰せの通り、ロシアはイラン・イラク・レバノン・シリアのラインは勢力下に置いておきたいのだろうと思います。従い、これらの国々に武器援助は行うでしょうが、イスラエルがイランを攻撃しからと言って、ロシアがイスラエルに軍事行動をとるかどうか?米国がどこまで介入するかに依りますが、米国がロシアを牽制するのではないかと思います。
それと、考慮せねばならないのは、イスラム教の宗派問題があります。イラク・イランはシーア派、サウデイ、クエート、ヨルダン、レバノンはスンニ派。両派の対立は血で血を洗う程険悪です。イスラエルがスンニ派を抱き込めば、米ソが介入しなくてもとの期待がもてないかと思います。
ご要求の資料は別途送付方法を考えます。暫し、ご猶予を下さい。



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