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<ブラジル人の友達>吉田 文彦さんの寄稿。
寄稿集165番目に<工業移住者協会のホームページ立ち上げました>との吉田文彦さんの寄稿を掲載しておりますが、今回また吉田さんから<ブラジル人の友達>という題で寄稿を頂きました。1966年4月あるぜんちな丸で渡航(私たちより4年遅い)され、移住する動機となった友人の日系ブラジル人山村さんと甲板で36年前に撮られた若き日のスマートで紅顔の美少年?だった頃の写真を掲載しておりますが、今回は、ラフなランニングシャツ姿でご自宅?の裏庭らしいバナナの葉っぱの前で撮られた写真を頂き、はやはり36年の時の流れを感じさせる「これが吉田さん?!」と思わず声がでそうな写真に親しみを感じました。寄稿集191番に全文を掲載しておきます。また内容の一部はバーチャル座談会でも使用させて貰う積もりです。吉田さん有難うございます。毎年年末にはカラカタツーバの別荘で山村さんのご家族と集うとのことですので是非36年後のお二人の写真を撮って送って下さい。
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福井県人会のホームページ公開。コロニア・ピニャール(福井村)40周年!!
福井県人会のホームページ立ち上げを手伝っておられたサンパウロの石田さんよりHP立ち上げの通知とURLを知らせて頂きました。そもそも福井村は、《在伯福井県人会会長宮本由太郎氏が日本移民50周年の記念事業としてブラジル福井村を建設したいと県に献策、県が賛同したのが始まりである。》との事、第1陣が62年12月に3家族14名が入植したと記されているが我々の12次航でも金井三郎さん一家4名と産業開発青年隊の浜埜英輝さん(単身)の5名が福井県出身者として移住してきている。ピニャール福井村入植40周年という立派な刊行物を出しており今回その記念誌の表紙と祭典委員長の山下 治さんの挨拶文と時の福井県知事栗田幸雄さんの挨拶文をお借りして掲載して置きます。
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岡村淳さんの新作ビデオ『赤い大地の仲間たち』完成【ニッケイ新聞より転載】
『私たちの40年!!』HPでも度々紹介させて頂いているブラジル日系コロニアの著名な映像作家岡村 淳さんは、日本で11月16日(土)に神戸の元移住センターに於いて日伯協会と神戸市の共催で「同船者の皆さんへ 40年目のビデオレター」の上映会と講演会を開きましたが申し込み者多数で抽選に漏れた当HP関係者2名から残念だったとの連絡が届くほど盛況だったようです。また東京では11月30日(土)に立教大学のラテンアメリカ研究所主催で「40年目のビデオレター」と新作「赤い大地の仲間たち−フマニスタの二十五年の歩み−」の上映と講演を実施しました。特に新作に対する反響は大きくビデオ・ジャーナリストとしての岡村さん会心の力作との高い評価を受けたとの嬉しい頼りが伝わって来ており、帰国後岡村さんご自身のニッケイ新聞社への報告記事が出ておりましたので転載して置きます。写真は適当なものが見つかるまで今年1月にアマゾンのトメアスー移住地の同船者を訪ねた時に撮らせて頂いた雄大なピメンタ(胡椒)畑を撮っている姿です。
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在ポルトアレグレ日本国総領事 津嶋冠治さんにお話を伺いました。
『私たちの40年!!』HPでもお馴染みの津嶋冠治総領事が2年弱のポルトアレグレ勤務を終えて1月9日に本省に戻られる事になりました。初代藤本総領事(1962年の学生の時に総領事室でご挨拶させて頂いた)から1967年から73年まで現地補助員としてポルトアレグレ総領事館に勤務中の佐藤総領事、尾戸総領事、西川総領事、その後の歴代総領事と数少ない全総領事を個人的に存じ上げている者として『私たちの40年!!』HP開設の年に在勤しておられた津嶋総領事にお話を伺い記録に留めて置きたいとの希望でお話を伺い纏めたものです。写真は既に画像掲示板にも天皇誕生日のお祝いの際にポルトガル語で挨拶されている姿、餅つきの姿等を掲載させて頂いていますが、今回は、総領事室で撮らせてもらった1枚を使用させて貰いました。
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若者が井戸を掘りに来た=交流協会生の三橋さん=ポンペイアで「上総掘り」を=利点、人力で深くまで
日伯交流協会のブラジル研修生は、現在第22期生が研修中で南伯にもポルトアレグレ、カシアスドスール、ラジェス、ブルメナウの各町で1年間働きながら研修しています。将来は日本とブラジルの掛け橋として各方面で活躍する春秋に富む若者達ですが、第16期生(1996年4月~1997年3月)18名の中の一人三橋源一君がこのたび元研修先のポンペイア農工学校に【上総掘り】の技術を引っ提げて里帰りを果たし井戸を掘りに来たとの嬉しいニュースがニッケイ新聞の12月18日付けに掲載されていました。【上総掘り】ってなんだろう?上総博物館デジタルミュージアムHPより上総掘り足場写真(鶴岡正幸氏蔵)と共にお借りしました。「上総掘り」ってなんだろう?
「上総掘り」は、千葉県の上総地方で考案された画期的な井戸掘りの技術です。たかが井戸掘りと思わないでください。水を得るための先人の知恵の結晶です。このページをご覧になって、「おもしろそうだな」って思っていただければ幸いです。どうぞ、見たいところをクリックしてからご覧ください。
1 上総掘りの歴史
2 上総掘りの工程
3 挑戦しよう!簡単に掘れる上総掘り
4 上総掘りの情報
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第3回バーチャル座談会 新春放談!! 地球の裏と表。日本とブラジルの違いを語る!!(前編)
これまでの神戸じいじさんMASAYOさんの3人によるバーチャル座談会は、今回よりフリートーキング形式を取り入れ参加者の範囲を広げ当HPの日本への紹介者として初期の段階から協力頂いている桐井さんとそのHP訪問者の皆さんにも参加頂きました。1回の掲載が使用ソフトの関係で1万語との制約があり1回で纏まらず前編と後編の2回に分けて掲載することになりました。前編は、新春放談と銘打ってますが少し早い年内公開となりました。後編は文字通り新年第1回の寄稿集としてUPする予定です。まだまだチャンスはありますのでこの一足早い前編をご覧になって頂き飛び入りが出てくることを期待する意味もありますので宜しくお願いします。
写真は、今回は私が撮りお気に入りでPCの壁紙にも使用しているブラジルのグランドキャニオンといわれているイタインベジンニオ(ポルトアレグレから200km)の写真を使わせて頂きます。
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『船の旅』 ポルトアレグレ地区会員 杉村士朗さんの寄稿
南日伯援護協会の援協ニュース317号(9月17日発行)の5ページに『船の旅』と題してポルトアレグレ総領事館勤務の杉村士朗さんの旅行記が掲載されております。我々より2年程早い1960年6月着伯の先輩ですがほぼ同時期をブラジルに過してきた仲間の一人として杉村さんの移民船ボイスベン号(オランダのRIL=ローヤルインターオーシアンライン)での船旅の思い出と郷愁は40数年を経た今でも忘れがたいとの記述を掲載させて貰いました。杉村さんは1939年11月15日東京に生まれた江戸っ子ですが20歳でブラジルに移住、農業から始め日本語学校の先生、経済的な理由もありリオとポルトアレグレの日本国総領事館に都合三〇年近く勤務、後二年で退職予定との事でその後は気力と体力の続く限り世界中を寝袋を担いで歩いて回りたいとの事で私も一度位は杉村さんにお供して寝袋担いでの安行?の旅に出たいと願ってますが実現するでしょうか。杉村さんの近影をと思ったのですが断られましたので日本の豪華客船『飛鳥』のリオデジャネイロ停泊中の写真を旅行ジャーナリストで写真家のDaniel R Carneiro さんからお借りしました。2000年にリオで撮影したものだそうです。
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画像掲示板の書込み一部永久保存開始。
11月18日より画像掲示板を開設、新しい寄稿集をUPした時のPR、関係者の写真掲載、各種連絡、『私たちの40年!!』愛読者?からの暖かい書込み(カキコ)、貼込み(ハリコ)等に威力を発揮して呉れております。この画像掲示板はある一定のサイズまで達すると古い物から自動的に削除されて行くとの事ですので、貴重な写真は写真集に一部記録的価値のある書込みは、この寄稿集に転載して置く事にしました。クリスマスイブの24日現在『私たちの40年!!』は8900回、画像掲示板は1750回のアクセス(1日平均47回)を記録しております。バーチャル座談会への関心等も手伝い次のキリ番9999/10000/11111/12345総てカーニバル前に達成しそうです。寄稿集は200番で今年を終えそうです。年間200件、5年で1000件の寄稿が集まればそれなりの戦後40年の移住史の一部として書き残せるのではないかと思います。内なる物の発露として継続して行く積もりです。
写真は、私事で気恥ずかしい気がするのですがやはりこの『私たちの40年!!』の始まりとなった22歳の若き日の横浜出航前時の花束を持つ華やいだ私の写真を選びました。旧友モグリ同船者の谷 広海君が云う《全ては和田より始まる》の言葉を裏付ける1枚です。
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