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戦いすんで日が暮れて・・・…(顛末記5)
4月16日の第1次選挙で過半数を得られず71票差の第2位の上原候補との決戦投票を前に選挙管理委員会を相手取って裁判所に訴えを出すとの法的手段を実施するも4月30日の決戦投票に辞退するとの通知を出し文協会長職を断念しその後裁判所への訴えも取り下げ日本文化協会選挙は現執行部の存在感がある上原幸啓氏が再選され今後のコロニアの舵取りを継続することになった。谷氏は、5月4日に裁判所に訴訟断念の手続きを取り更に6月28日付けで掲題の【戦いすんで日が暮れて。。。】の支援者及び日本文化協会全会員宛のお礼状を出して総てに終止符を打った。2月26日のニッケイ新聞の前代未聞の選挙事務所開設の報から数えて実に4ヶ月間に渡る谷旋風でしたがこれは何を意味し何をコロニアにもたらしたのでしょうか。100周年記念事業の箱もの記念事業としてのレオポルジーナ案を阻止しただけでなくそれに変わる100周年記念事業との取り組みと言う大きな宿題が残ってしまい3年をきった100周年祭までに何が出来るのか皆で考えて行く必要があろう。私個人としては、谷候補への1票の為に入会した日本文化協会の会員資格だけが残った。
好漢、谷 広海のブラジルでの活躍の場が近い将来到来することを期待したい。
写真は、谷 広海さんです。

「おいやんのブラジル便り」真砂 睦さんの【黒潮タイムズ】掲載ブラジル便り(8)
JICAシニアーボランタリーのブラジル派遣の真砂 睦さんは、ブラジル滞在中に郷里の和歌山県の新聞【黒潮タイムズ】に「おいやんのブラジル便り」を送り続けていますが、任期の2年を終えましたが半年特別延期となり今年の12月まで滞在することになったようです。シニアーボランタリーの入れ替え時期にもあたり仕事が忙しい事と題材を見つける難しさもあり回数が落ちて来ているようですが年末まで後何回送って頂けるのでしょうか。ブラジル勤務中の金字塔として貴重な記録を残されている真砂さんの今後の健筆に期待しております。
写真は、サンパウロの中心地プラッサダセー(セー広場)の大伽藍です。

セラードの生態系を守れ=JICA協力、動物の移動経路確保へ=連載(1)−(6)=
荒木昭次郎さんが掲題のニッケイ新聞古杉記者の連載記事を読んで『私たちの40年!!』MLにコメントを送って下さった事からポルトアレグレからシャパーダ・ドス・ヴェアデイロスへの旅の計画が持ち上がりブラジリアの河野賢二さんがアルトパライーゾに別荘があるから使って下さいとの垂オ出もあり、長年訪問していないトカンチンス州のグルピーの町を娘達に見せてやりたいと家族5人での無謀な7000kmに渡るブラジル中西部の度を実施した。初期の計画ではバナナの島を横切りマット・グロッモゥらパンタナールに下る嵐閧ナしたが、時間的余裕が無くなりゴヤス州のリオケンチの温泉で休息してポルトアレグレに戻ることにした。
私自身が撮った写真と共に連載(1)から(6)までを掲載して置きます。
又とないチャンスを与えて呉れた荒木さん、河野さんに感謝しております。

ブラジル移民の原風景“テープの嵐” 映画【あこがれ】の感激のラストシーン 桐井 加米彦さんよりのお便り。
東宝映画【あこがれ】1966年を見られた大分市に御住まいの桐井 加米彦さんから下記お便りを頂きました。
『和田好司様
お久し振りです。ご一家お揃いで楽しいご旅行の様子、まことに結高ノ存じます。
さて、先日NHKの衛星第2テレビで映画「あこがれ」(1966年)を見ました。
そこには横浜の桟橋から大勢の人たちに見送られてブラジルに移民する人々の姿がありました。数多くのテープ、大声で叫ぶ人、泣きはらす人・・・。当時はそうだったのですね。きっと和田さんもこうして旅立ったのだろうと思いをはせました。今では隔世の感がありますね。
下記がその映画のサイトです。
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD22017/index.html
時節柄、ご自愛専一に。
桐井 加米彦』
お知らせ頂いたURLを開き【あこがれ】のあらすじ、解説、キャスト、スタップ等を拾いました。ブラジル関係の映画として是非鑑賞して見たいと思いますし寄稿集にも紹介して置く事にしました。桐井さん有難う御座います。
写真は、あるぜんちな丸第12次航の1962年3月末横浜出向時の晴れやかな若かりし頃のものです。デープの嵐、出港風景より大分前に撮ったものでしょう。

ブラジル中西部への6708kmの家族大遠征旅行の記録 (前編)
これまで大学の休みの間に日頃の不義理?を返済する意味も兼ねて女房殿と休暇旅行を楽しむ習慣が付いており、2002年の5月にチリ旅行、2003年8月に日本、2004年8月には大阪の妹を案内してのアルゼンチン、パラグアイ、イグアスの滝見学の旅、2005年2月にフェルナンド・デ・ノロニアと女房孝行をしてきておりますが(何れも『私たちの40年!!』寄稿集に詳細記録)、今回の冬休みには自動車で広いブラジルを南から北に走り切ろうとの計画で大学の休みに入って直ぐの7月26日早朝、ホンダCIVICに荷物を満載して第1陣として女房殿を遠征隊長に娘3人が同行出発した。途中苦労したようですが無事3日目にゴヤス州の州都ゴイアニアに辿り付き私が参加するまでブラジリア近郊で9日間過ごし8月3日にやっと仕事を終えて後半から参加の私が合流しML仲間のブラジリアにお住まいの河野さんのアルトパライゾの別荘をお借りして世界遺産のヴェアデイロス高原公園を3日間歩いて回る。既にMLでも流していますが、私のブラジルでの実生活を始めた当時の北ゴヤス、現トカンチンス州のグルピーの町を娘達に見せて遣れ、青春への邂逅、とても懐かしい旅となりました。
写真は、ヴェアデイロ高原の黄色い花が咲いている清清しい高原の全員写真です。

ブラジル中西部への6708kmの家族大遠征旅行の記録 (後編)
1962年5月11日にあるぜんちな丸第12次航の皆さんと共にサントス港に到着してブラジルでの生活が始まったのですが、当時移住船に乗って来たとは言え早稲田の現役の学生であり休学が認められる最大の2年間をブラジルを中心とした中南米12各国(船が立ち寄った国を含む)をほっつき歩き帰国後早稲田を卒業、再移住して最初に入ったのが現トカンチン州のグルピーの町でした。現在は、州都パルマス、アラグアイーナの町に継ぎ州内3番目の町に成長している大きな町を37年振りに家族と共に訪ねることができ当時唯一のアミゴとも言えるジェラルド神父さん(72歳)、青森県出身の秋田谷男則さん(83歳)ともお会い出来住んでいたシャカラ・サンタ・テレーザのバナナ畑後とアグア・フランカの確認作業が出来大満足の旅となりました。
写真は、モンシニョール・ジェラルドさんと撮ったものです。

ブラジル中西部への6708kmの家族大遠征旅行の記録 (コメント編)
今回の旅の様子をMLで流しましたが、余り反響がなく『また下手な記述か?』といったうんざりした様子が見られますが、それでも幾つかのコメントを頂いておりこれを今回のブラジル中西部への旅コメント編として掲載して置きます。
今回の旅を思い立たせるきっかけを作って呉れた荒木昭次郎さんが住まれるベロオリゾンテまで数百キロの3角ミナスのウベランジア、ウベラーバの町を通りリベロン・プレットに抜けましたがブラジルは広いとの感を強くしました。河野さんの別荘トトロハウスが気にいり長居をしましたが、また歩きに行って見たい清清しい高原の町でした。
沢山の写真を撮りましたが、どれを掲載するか選ぶのに困りますが、矢張りヴェアデイロの高原にある【月の谷】の蝋石が水で削られた異様な様相をしている風景を使いました。

ブラジル永住ビザ取得方法とその要件(最近の情報)。
1500年にポルトガル人のアルバレス・カブラウによって発見されたブラジルは、若い国に入りますが、原住民のグアラニ族を中心とした原住民、ポルトガル本国から殖民に来たポルトガル人、アフリカから奴隷として連れられて来た黒人を中心にその後のヨーロッパ諸国、特にドイツ、イタリア、スペインからの移住者、日本人、中国人、韓国人等のアジアからの移住者等【人種の坩堝】を形成し労働力として奴隷解放後のコーヒー園での労働者として1908年に日本移民が始まりました。戦後も移民が移住者と名を変えてブラジルに渡って来ましたが労働力としての移住者の受け入れが制限されるようになって久しい。現在、ブラジルの永住権取得は、特に若い夢と冒険心を持ち人生の選択肢の一つとしてブラジルを選ぶ人たちへの門戸が閉ざされていることは残念な事実である。
最近の永住権取得に付いての方法、その要件等を探って見ました。写真は、ブラジルの玄関とも言えるリオのシンボルの一つシュガールーフ(ポンデアスーカル)を機内から撮ったものです。