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商船三井の職委報「海翔会報」39号、2002年10月号
写真は、関船長さんのご尽力により商船三井の職委報「海翔会報」39号、2002年10月号に掲載された『あるぜんちな丸12次航のホームページ』と言う紹介文です。読み辛いので内容を下記しておきます。
OBの方より「あるぜんちな丸第12次航」に関するホームページがあり、皆さんに是非紹介して欲しいとの連絡がありました。40年前(昭和37年)に同船にてブラジルに移住された方々のホームページで、当時の船内の様子が詳しく書かれたいます。当社OB4名の方も投稿されていますので、一度アクセスしてみてはいかがですか。URL:www.nikkeybrasil.com.br/40anos また、当時乗船されていた当社乗組員の方の投稿も募集していますので、ご協力をおねがいします。



横山ユリ、真理さんの消息をご存知の方いませんか?
1964年1月にボリビア国サンタクルス日本国領事館の領事をしておられたお父さんと一緒に住んでおられた横山ユリさん(当時15歳)、真理さん(当時14歳)のお二人の消息を知りたいと思います。ノートブックに貼って呉れたお二人の写真と書き込みです。
『和田さん:南米のまんなかでこんなおませな子に会うとは思わなかったでしょ!滞在期間は少なかったけれどいくらか楽しく過ごせましたか?二年間も一人ぼっちでさみしかったでしょう…。これからはお母さんのもとえ帰ってうんとあまえてくださいね!ではこれからも気をつけて、ねぼけて海におっこちないでくださいね!Vaya con Dios 横山真理
Santa Cruz Bolibia 1月10日 1964』
『和田さん:南米を一周したあと、たどりついたサンタクルスで《君の名は》という10年も前の映画を見るとは夢にも思わなかったでしょう。この小さな出来事はサンタクルスの思い出として忘れないで下さい。そして大きな南米の真中にあるこの小さな小さな町にも貴方の御成功を祈る人がいることも忘れないで下さい。横山ユリ S.C. 11/1/64』



ボリビア国在サンタクルス日本国横山領事とそのお嬢さん。
『大南米はわが妾宅なり 1964年1月6日 ボ国サンタクルス 仮寓佳人 横山生』とノート1ページ一杯に大書された当時の横山領事は今だお元気に本宅の日本でお住まいでしょうか?是非知りたいところです。1964年の1月にボリビアを訪問サンタクルスの町では横山領事の所でお世話になり同船者が入植されたサンファン移住地を訪ねたのだと思います。写真はノートに貼り付けて頂いた横山領事とお嬢さんお二人の写真です。



原始林の花嫁
パラグアイの移住地アルトパラナに入植された同船者奥村さん一家(一家7名香川県出身)の書き込みが残っているが『和田君のご多幸を祈ると共に移住地の実際をこの目で眺めて真実を母国に持ち帰ってほしい。パラグアイ アルトパラナ富美村 奥村一義、奥村栄治』と共に奥村美紗子さんの写真を貼り付けて呉れています。その写真の横に『原始林の中の花嫁さん。切り拓いた原始林の中に仮小屋を建ててそこに新家庭を築かんとするけなげな花嫁さん。なんと逞しいではないか!同船者の奥村美紗子さんの嫁入りの日嫁入姿で…』とのコメントがある。奥村さんの嫁ぎ先の姓は、聞きもらした。結婚後帰国されたとの記録が残っていますが日本でのその後の生活は如何なものでしょうか。機会があれば知りたいものです。



若かりし日の斎藤良夫さん
パラグアイのアルトパラナ移住地で一宿一飯のお世話になった早稲田の先輩斎藤良夫さんの写真とノートへの書き込みが見つかりました。斎藤さんは既にJICAを退職され現在サンパウロに住んでおられパラグアイの戦後移住史を執筆頂いております。
『異国の地に早稲田の後輩を迎え感慨無量である。和田君も将来はブラジル大陸において大自然を相手に開拓事業に専念するそうであるが、早稲田の野人精神を大いに発揮し日本民族の発展の為に努力されんことを事をお祈り申し上げます。 CASILLA de CORREO No 38 ENCARNACION PARAGUAY  1963年12月8日 パラグアイ共和国アルトパラナ移住地にて 昭和33年早稲田法学部卒業 斎藤 良夫
写真はパラナ河パクアナ付近にて』



こんな写真が見つかりました(3)
度重なる移転でその都度古い書類等の整理を繰り返して来ましたので古い記憶の中にあるノートブック3冊がまだ現存しているとは思いませんでしたがそれが見つかったのです。
色々な写真、記録を見ていて40年近い昔の記憶が甦って来ますが、それらの写真を幾つか紹介して行きたいと思います。最初は、一冊目のINDEX欄に貼り付けられた昭和37年3月30日横浜出航の日(於)あるぜんちな丸と書かれた花束を持つ22歳の私の写真です。こんな日もあったのですね。これが『私たちの40年!!』HPの出発の日だったのですね。



紅葉狩り
『和田さん、こんにちは!東京の野口です。
2,3日前にそちらに、あるぜんちな丸の写真数点、お送りしておきました。思ったほど枚数が少なかったです。お役にたてば幸いです。ブラジルの友達が昨日来たので、またブラジル話に花が咲いています。添付の写真は、友人から送られてきた山梨県山地の紅葉です。野口みどり』



関西のブラジル人、13日パレード W杯優勝にお礼
 W杯期間中、サポーターの応援スポットとしてにぎわったブラジル料理店「コパカバナ」(同市中央区)の田中康友店長が「応援してくれた日本人サポーターに感謝の気持ちを届けよう」とパレード開催を提案。神戸は同国とのつながりが深く、交流団体なども「一層の相互理解につながれば」と協力し、W杯閉幕から三カ月後に実現した。
 当日は、かつて海外への移住者が滞在・宿泊した「旧・神戸移住センター」(同)を午後二時にスタート。鯉川筋を経て、メリケンパークにある当時の出航地「移民船乗船記念碑」までの約二キロを一時間かけて歩く。
上記神戸新聞の記事に関連して『好きです神戸』のHPを運営管理しておられるMASAYOさんから掲載写真と共に下記お便りを頂いております。
先日移住センターからメリケンパークまでのサッカー応援ありがとうのパレードの終点での様子です。撮影者は黒田さんです。私は黒田さんの横で写させていただきました。皆さんは黒田さんの方を向いています。(笑)★☆★☆ まさよ★☆★☆



故佐藤揚明さんの大農場の航空写真
南米産業開発青年隊8期生の佐藤揚明さんの写真は写真集にも幾つか掲載しておりますしまた亡くなられた時の様子は、寄稿集136番「【悲報】産業開発青年隊 佐藤揚明さん急逝!!」及び162番 「佐藤揚明さん(8期生、秋田県出身)が亡くなりました」でお知らせしておりますが、佐藤農場の航空写真を小山さんから送って頂きましたので掲載して置きます。『約1000haの平坦な耕地に掘抜き井戸15本、半径40mの潅水設備10基を設置、その他大型トラックター、各種収穫機等を駆使してコーヒー、ニンニク、人参、大豆、トーモロコシなど大規模に栽培していました。特に昨年のニンニク百数十ヘクタール栽培は国内で5指に入る規模だったとの事です』ご冥福を祈ります!!合掌



トメアスーに住む三宅昭子さんを囲んで(2)
前述の8月8日(木)のサンパウロにおける会合の写真です。顔ぶれは同じですが、後列左端に小山 徳さんが写っております。ポルトアレグレでの先約が入っておりサンパウロまで出向けず非常に残念に思いましたが、昭子さんとはベレン及びトメアスーで今年の初めにお会いしており許して頂きました。計画移住地に入り40年間同じ場所で営農、生活しておられる方は少なくアマゾンでご弟妹、ご主人を亡くされ昨年11月に金剛婚(結婚50年)を迎えられたご両親の面倒を見ておられ、日本語の教師としてブラジルの子供を含む多くの生徒さんに慕われブラジル社会に溶け込んで生活しておられる昭子さんは、日々の生活を俳句と神への帰依の感謝の気持ちで過ごしておられ、羨ましい限りです。アマゾンの地に根付く同船者の足跡をこれからも書き綴って欲しい願います。



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