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ホンジュラスの五味 茂さんのポルトアレグレ訪問
『私たちの40年!!』のメーリングリストの仲間で遠い昔の『日本学生海外移住連盟』の仲間でもある五味 茂さんが学生の頃に訪れたことがあるポルトアレグレを41年10か月振りに訪問されました。訪日前の慌ただしい時期ではありましたが金曜日に定番ともなっているグラマードの町をご案内し日本に持って行く簡単なお土産(名物のチョコレート他)を買い込んだり色付き始めた紅葉を楽しみながら何時もの苦行の一つカネーラの滝壺まで927段?の階段を休み休み降り切り撮った五味さんの写真を使わせて頂くことにしました。南大河州の山岳地帯で毎年雪が降るグラマードは、ポルトアレグレを訪問された方には、一日の時間があれば必ずお連れする場所ですがいつ行っても飽きない町です。グラマードに年間14日間のタイムシェアリングのCasa da Montanha というホテルを購入しているのですが使用する機会がなく勿体ないと思います。年末、年始の1週間を使用して呉れる方がおられたらご招待したいと思います。

『工藤章氏を送る言葉』 サンパウロ新聞掲載の赤嶺 尚由さんの寄稿文です。
サンパウロで人材銀行を経営されておられる沖縄出身の元邦字新聞記者として活躍されていた赤嶺尚由さんは、現在も活発な文筆活動を続けておられ常時邦字紙に投稿されております。今回サンパウロ新聞に掲載された掲題の『工藤章氏を送る言葉』を転送頂きましたので『私たちの40年!!』HPの寄稿集にも収録させて頂くことにしました。
私個人としても工藤さんがサンパウロの日本商工会議所会頭当時から官民合同会議とか、全伯の商工会議所の代表者会議等でご一緒させて頂いており結構長いお付き合いをさせて頂いており最近ではお仕事の上でもリオの化学プラントCONPERJプロジェクトへの押出機の売り込みを手伝って頂いておりつい最近の2月、工藤さんがご帰国前の忙しい時に三菱商事ブエノスアイレスの事務所でお世話になる機会がありました。
写真は、ブエノスアイレスの三菱商事の事務所での打ち合わせの時に撮らせて頂いた写真を使用させて頂きました。

『ブラジルーリオグランデドスール州のワイン産業』麻生 悌三さんの寄稿です。
この寄稿集でもお馴染みの勉強家の麻生 悌三が掲題の南大河州のワイン産業に付いて纏めて呉れております。ブラジルの軌跡と呼ばれ日本企業がブラジルに大挙して進出してきた時代に丸紅がベントゴンサルべスのモナコ社と合弁でブドウジュース工場を建設したが市場確保に問題があるとの判断で生産開始前に撤退した経緯があるし本坊酒造がウルグアイとの国境地帯のリブラメントにワイン工場を建設、サンタコリーナというブランドの高級ワインを生産日本でもそこそこの評判を勝ち得ていたようですがワイン産業からの撤退を決めている。日本の会社は、この方面では伝統がなく得意でない部門と言わざるを得ないようです。日本酒は、キリンビール系の東山酒造がブラジル市場を独占する成功を納めているようですが、アメリカからの輸入酒として大関、白山が市場を賑わしえいるし日本からの月桂冠も高級酒のイメージで贈答品等に結構売れているようです。
『ブラジルは一人当たりの年間消費量、ビール50リッター、ピンガ10リッターを消費しているが、ワインの消費は僅か2リッターに満たない。』とのことでまだまだこれからの産業といえます。
写真は、興南物産(株)が販売していたブラジル産ワインのサンタコリーナです。

天皇陛下が労苦ねぎらう=百周年・交流年東京式典=祖国救援、デカセギにも触れ=首相、伯関係者ら4百人出席 ニッケイ新聞WEB版より
2008年は、日伯交流年として日本、ブラジル両国で各種記念行事が開催さえていますが4月24日に東京のホテル大倉でかいさいされた百周年記念式典に出席する機会を得られたのは、大変光栄で幸せな出来事でした。
ニッケイ新聞の藤崎康夫東京支社長の記事がニッケイ新聞WEB版に天皇陛下のお言葉全文と共に掲載されていましたので収録して置きます。
ブラジルから参加さえておられた皆んさんを代表する形で『私たちの40年!!』MLに寄せられたブラジリアの河野賢二さんのコメントをお借りして紹介して置きます。
『ホテル・オークラでは陛下のお言葉で「同胞」と言われた時と子供たちのAquarela do Brasilの合唱には涙があふれて止まりませんでした、隣に座っていた80歳のカンポス知事が「お前、50年間苦労したんだろうな・・・」と背中をさすってくれ、「日本恋しや・・・」、と口ずさみながらブラジリアで没したオヤジを思い出しもっと泣けました。』
写真もニッケイ新聞掲載分をお借りしました。

『私にとってアマゾンとは』東京農大拓殖61年卒 麻生 悌三さんの寄稿
最近、麻生さんは活発な執筆作業を続けておりブラジル農業界の各部門に付き纏めて呉れています。今日は少し変わった回顧録ともいえる麻生さんのブラジルにおける初期のアマゾン時代の思い出を『東京農大卒業生アマゾン移住50周年記念誌』に書いておられる掲題の原稿をお借りして寄稿集に収録させて頂くことにしました。アマゾンでの3年間は、麻生さんの今日を形成する上でどのような影響があったのか?ご本人がいまだに『アマゾンとは』の問いに結論が出ないとのこと。写真は数少ない当時のものを見つけて送ってくれましたが、鉄砲にピストル何だか西部劇に出てきそうな物騒な物腰、これでも格好良いと胸を張っての気負った麻生さんの姿が微笑ましい。誰にもあった青春の1コマが懐かしい写真です。麻生さん有難う。

移民?移住者?どう違うのでしょうか? MLで盛り上がりました。
移民?移住者?普段は別に気にしないで両方を使っていますが正式な意味の違いがあるのでしょうか。私は戦前にブラジルに来られた方を移民、戦後の方は移住者と使い分けしている積りですが、心情的には『移民』に強い郷愁と愛着を感じています。戦後移住者協会とか50周年記念とかにはすんなり納得がいくのですが、日伯交流年の今年が『日本移住100周年』との表現には違和感を覚えつい『日本移民100周年』を使ってしまいます。100年前に笠戸丸でブラジルにやって来られた方は紛れもない『移民』であって当時は移住者という言葉は使われていなかったと思います。
『私たちの40年!!』メーリングリストで富田さんが問題提起され皆さんが呼応し盛り上がりましたが、結果として11月末に河野さんのアナポリスの農場での花火大会開催にまで発展しました。
今回参加した日本における100周年記念式典では外務省主催の東京では『ブラジル移住100周年』が使用されており神戸での式典でも移住100周年が使用されていました。写真は神戸の記念式典のプログラム表紙です。

『ラオスへの旅』 オランダに御住みのPHILIPPOあや子さんの寄稿分です。
もう20年もオランダに住んで現地に溶け込んでおられるPHILIPPOあや子さんが2年前のご家族3人でのラオスへの旅を書いて送って呉れました。これまでの旅行記はブラジル、南米が多く大抵の場所は既に知っていたり理解しやすかったのですが、アジアの国々(私は移民船が立ち寄った釜山、香港、ペナン、シンガポール、中国の一部、香港の陸続きの深浅、台北程度しか知りません)は、テレビで見る程度で良く知りません。それだけにあや子さんのラオス紀行は、新鮮で興味深いものでした。日本、オランダ、ブラジル(育って子は、ブラジル東北泊のレシフェ生まれとか聞いております)のそれぞれ違う3国の文化が織り成す人間模様、こうゆう関係もあるのだなと感心されられました。最近あや子さんは、オランダで屋台寿司を開店されており話題になっているようですが、写真はラオス旅行中のご家族3人の写真をお借りしました。

こんな人生もあります。皆さんはどう思われますか?オランダで20年のPHILLIPPOあやこさんの人生紹介。
現在『私たちの40年!!』メーリングリストには、265名が参加して下さっており伊豆山さんのご発言ではないですが一風変わったというかそれぞれどっこい生きておられる方が多いです。そんなお一人のオランダにもう20年も住んでおられるPHILLIPPOあやこさんは、大学での教職をやめて屋台の寿司屋をご主人とお二人で始められました。写真はこの屋台寿司のオランダ語のホームページよりお借りしたものです。このあやこさんの書き込みに対し伊豆山さん、yukiさん、三浦さん、井川さん等のコメントが続いており纏めて紹介することにしました。日本人は活力をなくしてしまったのではないかとのリオの山下さんのコメント対する回答の形で始まったのですが皆さんで自由にコメントし合えるのは有難いですね。
伊豆山さんのコメントを下記に紹介して置きます。
『オランダに、カナダに、テキサスに、ハワイに、そしてブラジルの和田さん、河野さん。 活力過剰?の日本人が大勢いらっしゃる。』