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コレラ発生のはわい丸で1歳のとき着伯された坂本三郎さん。
中公新書1441の山田廸生著の 『船にみる日本人移民史』141ページにはわい丸コレラ事件との表記がある。この記載事項は別途転載ささせて頂く予定ですが、このサイゴン寄港中にコレラが発生、シンガポールに1ヶ月停船し3月17日に神戸を発ち6月にサントスに到着したはわい丸に家族と共に1歳で乗船していた坂本三郎さんがおられ、今回縁があって話を聞く機会がありました。
10月19日(土)にバスでサンパウロ州奥地のオウリニョスという町までバスで6時間掛けて40年前より音沙汰が途切れていた亀川さんの家族を尋ねる旅に出かけました。尋ね人亀川さん一家に付いても別途記載したいが今回は、コレラ発生事件のはわい丸で着伯された坂本三郎さんのお話を紹介したい。写真は、娘さんご夫妻とお孫さんに囲まれた坂本三郎さんです。19日のよる地元オウリニョス体育文化協会主催の慈善夕食会に御一緒させて頂いた時に撮らせて貰ったものです。

<ブラジル留学の報告書>青少年交換学生 岡村孝子(県立弥栄西高校)
国際ロータリ第2780地区相模原グリーンロータリクラブから1年間交換留学生としてブラジルのサンパウロに派遣されて今年の8月に帰国された岡村孝子さんのブラジル留学報告書です。
『私たちの40年!!』HPの掲示板に9月10日に「人探しをしております」との書き込みをして下さった篠崎雅彦さんが相模原グリーンロータリクラブの会員でブラジルから帰国された岡村さん現在篠崎さんがお世話しておられるブラジル人留学研修生のララさんと大学の休みを利用して訪日していた私の次女茜と東京に置けるブラジル関係の若者の交流をプロモートして下さり10月26日に歓談されたとの事で写真と共に報告頂いておりますがそのブラジルで1年間生活された岡村孝子さんの<ブラジル留学の報告書>が相模原グリーンロータリクラブのHPに掲載されていましたのでそのままご家族と撮られた写真と共に転載させて頂きました。岡村さんこれからもブラジルでの生活を忘れずに日伯交流に尽くして下さい。                             

「人探しをしております」篠崎雅彦さんの便りを基に亀川さんご一家の消息を尋ねて見ました。
9月10日付けで神奈川県相模原市にお住みの篠崎雅彦さんより「人探しをしております」との書き込みを頂きました。1962年以来音沙汰が途絶えている篠崎さんのおばちゃんの妹さんがブラジルに住んでいたが消息が途絶えたままになっており、その後ご家族がどうしておられるか既に世代を超えた40年前の人探しの相談でしたが、私たちと同じ戦後40年を同じブラジルの土地に住んでおられた同胞としての親しみを感じ最後お便りにあったサンパウロ州奥地のオウリニョスの町まで出向いて見ることにしました。しっかりした日系コロニアが存在する町で比較的容易に消息は分かったのですが報告を受けた篠崎さんご自身がコメントしておられるように『渡伯された亀川家の40年以上の歴史はどういうものだったかは想像するしかありませんが、皆さん大変な思いで生きてこられたのだと感じました。 今までは考えた事もないブラジル移民のことは、今回の親戚探しや和田さんの『私たちの40年!!』を拝見して、多くの方がみな一様に南米の大地で一生懸命生きてこられたそれぞれの歴史だと思います。父の従兄弟である亀川茂、シズ子さんも既に他界され、そのお子さん6人の内4人も亡くなられていること、皆さんまだ年齢的には早すぎと 思いますが、とても寂しい思いです。また亀川サカイさんを含めてそれぞれの多くのお子さん達が、現在日本に居られる事はちょっと驚きでした。』とあります。写真は、亀川セリアさんにお話を聞きながら主旨を説明し了解を得て撮らせて頂いたものです。セリアさんのお子さん3人は現在日本で元気に働いているとのことです。

半世紀の歳月を経て再会へ!! 栗本さんのHPにある幻のE子さん見つかる。
『私たちの40年!!』HPに紹介している大分県在住の栗本克彦さんのHP『人生・ロマン・メッセージ』の《私のページ》第9章、第11章に出てくるE子さんの消息を調べて挙げたいとの気持が強く栗本さんに御相談した所、是非どうしているか消息だけでも知りたいとの気持と今更探してE子さんに迷惑を掛けるのではないかとの危惧の板挟みでで決めかねておられた。コロニアの生き字引サンパウロ新聞内山編集長にお電話でお聞きしたが昔の話で判らないとの返事で殆ど諦めていたのですがサンパウロ新聞の10月22日版で簡単な尋ね人記事を掲載して頂いたところ、新聞の威力でご本人から電話を頂き思わず声が上ずる驚きを覚えました。同じサンパウロ新聞の10月31日付けの社会面で53年前のサントスと撮ったお二人の写真と共に大きなスペースの記事として掲載されました。ご本人が写真を提供し取材に応じられ新聞記事になっているのであればHPに公開するもの私は問題ないとの栗木さんの了解も得てここに紹介する次第です。これからの進展は、栗木さんご自身の問題として見守って行きたいと思います。写真は、訪日準備に忙しいエリ子さんをサンパウロのご自宅に同船者の小山徳さんに訪ねて頂き、撮られせて頂いたものです。

学移連 30周年記念誌 1986年2月発行
ブラジルにある各団体では40周年を記念しての記念誌発行が中心になっているようですが日本学生海外移住連盟では1986年2月に『学移連 30周年記念誌』を発行している。この記念誌刊行にあたって 【三十年の重みをここに】第三十八期委員長 木戸 政行と懐かしい名前が出ている。木戸君は、リオグランデドスール州のウルグアイと国境を接するリブラメントという町に葡萄園と葡萄酒工場を建設した鹿児島の白波芋焼酎で有名な本坊酒造のブラジル現地会社に数年勤務されゴルフを一緒に楽しんだ仲間で何度もリブラメントに遠征した。現在は本坊酒造の海外営業部門の別会社興南物産という貿易会社に勤務しておられる。つい最近サンパウロのホテルでばったり出会い言葉を交わしましたが、興南物産でも新しい仕事としてワイン以外にもブラジルの珈琲を扱う事になり珈琲の品質鑑定員の資格を取得する為に3ヶ月近くサントスの専門学校で講習を受け無事鑑定員としての資格が取れ帰国するとの事でこれからブラジルの珈琲輸入ビジネスを展開して行く事になりブラジルとの繋がりがより強くなったと張りきっていました。東京農業大学を卒業して16年、その後の学移連の情報を掴んでいないが母校の移住研究会を通じてCHKして見て呉れるとの事楽しみにしています。写真は30周年記念誌の表紙です。

同船者内田 明さん(1943年9月3日生まれ山口県出身)にお話を伺いました。
内田 明さん(59歳)は、リオグランデドスール州カシアス市に26年住み着いておられるガウショーです。私とほぼ同じ頃ポルトアレグレ市に引越して来られその後カシアスに移られました。同船者とはいえそれ程近しいお付き合いはありませんでしたが、お兄さんの中津井さんとは早稲田の先輩でもありポルトアレグレに住んでおられることからテニス、ゴルフ等を御一緒にプレイする仲間としてお付き合いさせて頂いておりました。内田さんの現在VARIGのスチュワデスをしておられる次女のカロリーナ美代さん(26歳)がリオグランデドスール州のミス日系コンテストで優勝された時に審査員として参加していた事から良く覚えております。今回カシアスに出向く機会があり昔の話を伺ったり40年前の古い写真をお借りして来ました。写真はお宅の応接間で居合わせた長女の美香さん(30歳)と奥様さま伸子さん(55歳)の3人で撮らせて頂いたものです。

同船者園田昭憲さんの辿った40年の道程。
同船者の一人園田昭憲さんとは私たちの40年事業構想を仲間と語り合う段階でお会いした。お忙しいお仕事(姫マッタケの契約農家への原料供給と買い上げ、加工、輸出を主業務とするDEC=DAIDO ENTAPRAISE CORPORATION社長)のなか仲間との会合には遅れてもシーバスを抱えて顔を出される律儀さを備える好漢で饒舌からは程遠い寡黙に近い園田さんが熱して話して呉れるのはあるぜんちな丸船内の思い出、その後の入植地パラグアイでの原始世界の中での勉学に対する熱い思い日本に戻り勉強したいとの気持ちとそれを実現して日本で大学を出るまでの苦労、皆が耳を傾けるシーンです。園田さんに是非書き纏めて欲しいといつもお願いするのですが、自分ではまだ書く気がしないと笑っておられます。痺れを切らしお聞きした話をノンフィクション風に纏めたのがこの文です。その内ご自分で書かれる事もあるかと思いますがそれまでは私の拙文で我慢して頂きます。写真は最近のサンパウロでの会合の際に撮らせて頂いたものです。今後この種聞き取りによる同船者の40年の道程を書き残す作業も続けて行きたいと思います。

ここにも「ジャポネース・ガランチード」 ア国のガルアペー移住地【ニッケイ新聞より転載】
あるぜんちな丸第12次航でアルゼンチンに移住した同船者は、合計40名で単身で最初からブエノス・アイレスに入られた田上英明さん以外の9家族39名がガルアペー移住地に入植されました。現在も多田さんと高松さんのご家族が頑張っておられるとの連絡を受けており、是非近い将来訪問して見たいと念願しております。やはり1500キロ離れた首都ブエノス・アイレスに移られた方が多く一部は日本に帰国または一時帰国中とのこと。アルゼンチンに入られた方達の消息を訪ねるには、ブエノス・アイレスとガルアペー移住地を訪問する必要がありそうです。ナランハ(オレンジ)、ツング(油桐)、タバコ等を作ると言っておられた同船者は、古庄省吾さんと同じように植林をしておられるのでしょうか。学生の頃訪ねたガルアペー移住地への道は雨でバスがストップ(舗装のない道路を保全するため)27kmをトクトクと歩いて辿り着いた忘れ難い移住地。ケネデイ大統領の暗殺を知ったのもこの時であった。
写真はアルゼンチンのミシオネス州ハルデイン・アメリカ市のアルトパラナ日本語学園のHPよりお借りしたアルト・パラナ河の写真です。

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