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沢田 啓明さんのサッカーコラム復活!!(5)
ギリシャのアテネ・オリンピックに取材を兼ねて行っておられた沢田さんのサッカーコラムです。今回は、沢田さんご自身のお便りをリードとして使わせて頂きました。
ギリシャには21日に入り、これまで男子サッカー(準々決勝のアルゼンチン対コスタリカ、準決勝のアルゼンチン対イタリア)、女子サッカー(準決勝のブラジル対スウェーデン)、野球(準決勝の日本対オーストラリア、3位決定戦の日本対カナダ)、女子レスリング、ソフトボール、女子バレー(準々決勝の日本対中国、ブラジル対アメリカ)などを観戦しました。
野球は、当然、決勝でキューバと対戦すると思っていたので、準決勝でオーストラリアに完封負けしてガッカリ。オーストラリアは阪神のウイリアムスと元中日のディンゴ以外は2流選手ばかり(のはず)なのに負けるとは、情けない限りです。こういう場合、サッカーの世界ではサポーターから罵声が飛ぶのがふつうなのですが、応援に来ていた日本人ファン(大勢いて、ほぼ日本のホーム状態でした)は「よくやったぞ〜」といった慰めの声がほとんど。サッカーとのサポーター文化のちがいをひしひしと感じました(僕は一人で怒っていましたが)。
今日26日は、女子サッカーの決勝(ブラジル対アメリカ)を見ます。それから、27日に男子サッカーの3位決定戦(イタリア対イラク)、28日に男子サッカーの決勝戦(アルゼンチン対パラグアイの南米対決)を見てからギリシャを離れます。
写真は、アテネ五輪に取材に行っておられた写真家の北川外志廣さんに送って頂いたものを使わせて頂きました。
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六十一歳四カ月の願望冒険旅行ブラジル(2) 阪口多加代さんの寄稿
前回は、ブラジル到着後、長女弥生に同行させレシフェー、サンルイスの東北伯の町を選び合計9万マイルのVARIGのマイレッジを使用しての旅を報告して貰いましたが、今回は、9日間を掛けてのポルトアレグレからポルトアレグレまでの3083kmのイグアス見学の車の旅とリオのレンターカーを使用しての3日間の旅を丹念に報告して呉れています。イグアス編、リオ編の一挙公開です。同じ場所を見て廻ってもそれぞれの印象、自分流の見方、感じ方があり興味深いです。物心が着いてからは、大学予備校1年、南米9カ国の旅2年間を加えての早稲田時代の6年、その後のブラジル生活と神戸を離れて生活しており、何時も訪日時に大阪の茨木市で妹の所にはお世話になって来たが今回程、時間を掛けての付き合いは珍しく彼女なりに兄貴の実生活を具に見る機会があり若くして逝った母の墓前に報告して呉れる旅との事で良い機会に恵まれたと喜んでいる。
写真は、イグアスの滝、ビラ・ベイリアの奇岩、リオの写真と使いたいものが幾つもありますが、テレゾポリスのデド・デ・デウス(神の指)の前での写真を使用しました。
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『ブラジル移民』 戦後42年の記録 旧トップページの保存(7)。
前回、『私たちの40年!!』HP開設2周年の5月11日に55000回のアクセスを記録した日にTOP PAGEを書き換えました。前回の旧トップページの保存の前書きに【3年目に突入、来年5月には、10万回アクセス達成も視野に入って来る『私たちの40年!!』HPの編集者としての責任を感じています。】との記述がありますが、その後YAHOOのHP紹介欄への登録、7月から利用を始めたYAHOO配信によるMLの活用等により予想を上回るアクセスが見られ一日最高639件を記録、平均300アクセスを記録するようになりこの10月17日で10万件アクセスを記録しそうな勢いでトップページの一部書換えをするに当りこの5月11日付けの現在のトップページを保存する事にしました。現在までのところ、世界63カ国からのアクセスを記録しており雪だるまのように今後もアクセスが伸びて行く気配を感じています。商社の売上、銀行の預金高、HPのアクセス数、何時もノルマとしての数字に追われ数字を重視する生活を強いられてきましたが、アクセス数は有難いですがそれが目的ではなく初心の『私たちの40年!!』HPに流れる基本姿勢だけは大切に頑なに守って行きたいと願っております。今後どのような展開と広がりを示して行くのか楽しみでもあり不安でもあります。これからも暖かく見守って下さい。
写真は、ポルトアレグレに咲き乱れる季節の花ジャカランダを使用しました。
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【21年間の軍事政権を考える】 赤嶺 尚由さんの寄稿文。「ブラジル移民 戦後移住の50年誌」より転載
サンパウロにお住みで元邦字新聞記者として活躍され現在は、人材銀行社長としてブラジル日系コロニアの指導者のお一人と目される赤嶺 尚由さんが戦後移住50周年記念誌に寄せられた掲題の寄稿文を転載させて頂く事になりました。同記念誌編集責任者の関昇さんより下記コメントを頂いております。
【本文は、「ブラジル移民 戦後移住の50年誌」から転載したものである。第二次世界大戦で中断されていた日本からのブラジル移住が1953年に再開され、満50周年を向かえたのを機に、ブラジルニッポン移住者協会(小瀬真澄会長)により企画、発刊されたのが同誌であり、ブラジル、日系コロニアに関するいろいろ示唆に富んだ寄稿文のほか、興味深い座談会の内容なども掲載されている。】
写真は、赤嶺さんがボリビアを訪問された時に撮られたお気に入りの写真を送って頂きました。
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「おいやんのブラジル便り」真砂 睦さんの【黒潮タイムズ】掲載ブラジル便り(5)
一次帰国休暇?等が入り暫らくお休みしていた「おいやんのブラジル便り」がまた始まったようです。その30以後を掲載させて頂きます。それにしても色々な話題を旨くぴたりとページに収める技術は、大したもので舌を巻きます。
先日早稲田大学の海外移住研究会のOB連中一行九名が来伯、サンパウロでの歓迎夕食会に参加しました。早稲田の海外移住研究会は、日本学生海外移住連盟の中心的メンバーとして富田博トミ(サンパウロ在住)、武藤喬(パラグアイのアスンシオン在住)、真砂睦(サンパウロ勤務中)の三代続けて連盟の委員長を勤めた連盟、早稲田の黄金時代の3人が一同に会しての歓迎会は、壮観で学生時代の懐かしい話が飛び交い皆で肩を組み高唱した【都の西北】は何時歌っても気持を高揚して呉れる歌です。そのうちに機会を見つけておいやんにブラジルに掛けた若き日の思いを語って貰いたいですね。
写真は、歓迎会夕食会で歓迎の挨拶をしているブラジル稲門会の相田祐弘会長の写真をお借りしました。
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一筆啓上 小泉総理大臣殿 【ポルトアレグレ総領事館閉鎖は2008年以後に!!】
小泉内閣メールマガジンを購読していますが、その第159号10月14日付けの【やればできる】に第161回臨時国会における所信表明演説の結びの部分で先月のブラジル、メキシコ訪問に付いても引用しておられます。2年間継続して来ているポルトアレグレ総領事館存続を願うキャンペンは、開始当時から津嶋ポルトアレグレ総領事、中内中南米局長、池田ブラジル大使、川口外務大臣とその対応者が次々交代しその引継ぎが充分行われているのかどうか疑問ですが、『私たちの40年!!』HPを通じての地道なキャンペンが続けられていたとの記録だけでも残して置きたいとの願いから多分届くことのない投書を一筆啓上しました。内閣官房より何時もの様に『小泉総理大臣あてにメールをお送りいただきありがとうございました。いただいたご意見等は、今後の政策立案や執務上の参考とさせていただきます。皆様から非常にたくさんのメールをいただいておりますが、内閣官房の職員がご意見等を整理し、総理大臣に報告します。あわせて外務省、内閣広報室メルマガ・ホームページ担当へも送付します。今後とも、メールを送信される場合は官邸ホームページの「ご意見募集」からお願いします。内閣官房 官邸メール担当』との返事は戻って来ておりますが。。。
写真は、同メールマガよりお借りした国会演説中の小泉総理です。
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ブラジル日本移民戦後移住の50年 1953年-2003 ブラジル・ニッポン移住者協会 記念誌
戦後移住50周年記念誌が発行されました。桜とイッペー植樹に参加協力された方には漏れなく配布されるとのことで344ページ写真を豊富に使った記念誌は、戦後50年の移住を如実に語る力作で私たちのあるぜんちなまる第12次航同船者も41年を一緒に歩んで来ました。2008年の日本移民100周年には、戦後移住者は55年、私たちは46年を刻むことになります。
写真は、同記念誌の表紙です。本文には、同記念誌配布時に同封されているブラジル・ニッポン移住者協会小瀬真澄会長の移民100周年に向けての活動趣意書「環境と日伯交流」を掲載しました。
この趣意書は、松田憲彦さんから寄贈頂いた『読んでココ』のワードへの転換ソフトを使用させて頂きました。訂正漢字は2字だけの略、完璧な転換で非常に役立つことが分かりました。字と字の間隔が詰まりすぎているようでこれの調整をする必要がありそうです。松田さん有難うございました。
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【幻の滝 セッテケーダス】南米産業開発青年隊 荒木 昭次郎さんよりのお便り。
建設省派遣の南米産業開発隊の移住者が合計326人に達し私たちの大12次航でも第8次団の33名が一緒に来ました。私たちより1年早く来伯され一貫してダム建設のお仕事に従事、正にダム男の荒木 昭次郎さんからのお便りです。妹の多加代を時間の関係で荒木さん達が建設に携わった世界一のダム、イタイプー水力発電所を見せて遣れなかった事への悔いが残ります。悔いと言えばイタイプーダム建設で水底に埋没してしまった【幻の滝 セッテケーダス】を見に行けなかった事です。グアイラーにあった【セッテケーダス】の滝は消え去る滝として当時有名でした。私の父をイグアスに連れて行ったのが1981年の夏で長女弥生が4歳、次女茜が1歳、三女の小百合はまだお腹の中での胎教中でそれこそ残念ながら足を伸ばせず幻の滝になってしまいました。翌年に大惨事の事故があり、行かなくて良かったと胸を撫で下ろしましたが、今になり当時まだ4歳だった弥生がどうして連れて行って呉れなかったのかと文句を云っています。覚えていようがいまいが幻の滝になる前に行ったという事実が大事であると主張しています。
写真は、送って頂いた【幻の滝 セッテケーダス】に掛かっていた吊橋です。
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