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ドングリ先生下船 【船内新聞より転載】
1962年4月16日月曜日の第10号船内ニュース さくら に「ドングリ先生下船!!」との記事が掲載されています。船内でアコーデオンを抱えて歌唱を指導、明るい雰囲気を振りまいておられた川崎さんの事を覚えておられる同船者の方は多いのではないかと思いますがお元気であれば多分80歳を過ぎておられるのではないかと想像しますが(ロスで下船された方々の名簿は残っておらずトレースのしようが無いのが残念)私も英語のマイボニとその日本語訳の「夕べの空を見た悲しみに泣いた帰らぬ仲間達夕空に浮かぶローンローン、ローンローン風が吹いて来てローンローン、ローンローン風が流れ行く」と今でも時々口ずさむ歌を教えて貰った想いでがあります。その後の消息を何とか調べる方法がないものでしょうか。掲載写真は、ロスで下船される前にニュース班の皆さんと撮った貴重なスナップです。
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佐藤 薫さんの詩 【船内新聞より転載】
船内ニュース班の部屋には何時も賑やかな声が聞こえていましたがニュース員の一人佐藤昭子さんの直ぐ下の妹さん佐藤 薫さんは皆から「薫ちゃん、薫ちゃん」とマスコットの様に可愛がられ産業開発青年、コチア青年、野球移民等若い人達と人なっこく愛嬌を振りまいていました。その薫ちゃんが書いた詩が船内ニュース第十二号(1962年4月18日水曜日発行)の2ページの真ん中に掲載されていますのでタイプアップして置きます。
写真は、あるぜんちな丸船上で船内ニュース班の主力ガリ切りで頑張ってくれた旧姓吉田美智子さん(右端)と花嫁移民の金子道代さん(右から二人目)旧姓吉田和子さん(左端)と撮ったスナップです。シャッターチャンスが悪かったのか肝心の薫ちゃんが少し下向き加減ですので他の写真を探してみます。
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娘達に贈る「山の歌」
私には弥生(25歳)、茜(22歳)小百合(20歳)の3人の娘がいます。3人の頭文字SAYAKAを並べファミリーネームのWAを加えたのがSAWAYAKA商会の社名の由来ですが、21年間お世話になり1995年に丸紅ブラジル会社を退職しささやかなさわやか商会を設立した時に丸紅とは事を構えない、さわやかな気持ちで第二の人生をとの願いを込めての命名でした。既に7年目を迎えているさわやか商会ですが娘達はそれぞれの道を選びつつあり自分達の会社にはトンと興味を示さずお父さんの元気な間の遊び場程度にしか評価して呉れていない様です。
つい最近丸紅時代の平成3年に書き残したメモに近い書き物が目に留まりました。今でも蛮声を張り上げて時々歌って聞かせる山の歌の歌詞ですが、心を込めて残して置きたい歌ですので書き残しておきます。添付写真は、3人娘達のスナップです。
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商船三井本社・資料室に潜って見付けた資料!!
『私達の40年!!』計画を始めてから日本側の船関係者への具体的コンタクトの窓口として多くの時間を割き多大の協力をして呉れている関船長さん(寄稿文に其の経緯を説明して呉れている)は、毎回1-2時間程度を商船三井の本社・資料室に幾つものダンボール箱に収められている40年前の資料を丹念に根気よく調べて呉れました。少なくとも私たちが乗船してきたあるぜんちな丸第12次航の乗組員の名簿、配船表、1962年4月26日の取締役会に於けるあるぜんちな丸関係の報告の一部を見付け出して呉れました。下記参考に記載して置きます。添付写真は毎日1-2時間資料探しをしてくれた関船長さんの冬山の写真です。
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海を渡った高校球児たち 【大阪新聞より転載】
平成13年8月10日(金)の大阪新聞、夕刊大阪ビジネス紙に我々の同船者で豊和工業野球部に野球移民として遣ってきた仲間に付いて なかまき・ひろちか国立民族博物館・総合研究大学院大学教授が書いた会社じんるい学第2部〈33〉が掲載されています。なかまき氏は、この記事を書くに当たり高野書店の高野泰久さんに取材したとの事で掲載日に記事をサンパウロにFAXして呉れたものです。写真は、編集員の一人、高野泰久さんです。
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貢献した豊和工業野球移民 【ニッケイ新聞より転載】
ブラジル野球を“近代化” 「10人、4年契約だった」残留した名取投手語る。との見出しで平成13年10月3日(水)のニッケイ新聞に同船者名取さんに付いての記事が掲載されています。下記転載しておきます。
ブラジル野球が活躍している。八月にアメリカで行われたボーイズ・リーグでブラジルチームが優勝、ホンジュラスで行われたプレ・ジュニオールのパン・アメリカン大会で準優勝している。日本に野球留学している選手もいる。これまでブラジル野球が発展するきっかけは何だったのか。一九六二年ブラジル豊和工業野球チームに「野球移民」と呼ばれた十人が来伯しているが、現在唯一ブラジル在住の名取満臣さん(五八)に話を聞いた。
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ブラジルにかける橋 【船内新聞から抜粋】
1962年5月4日(金)の船内ニュース さくら 第28号と5月6日(日)の第30号にY.Tさん(多分産業開発青年隊のお一人)の「ブラジルにかける橋」との題で2回に分けて掲載されておりますのでご紹介しておきます。べレン入港時に下船できず(移住監督官の行政判断による?)其の決定に対する当局のことなかれ主義、島国根性を批判これではユダヤ人華僑には太刀打ち出来ないとの警鐘を鳴らしている興味深い記事です。現在のY.Tさんはこれを読んで40年前の自分の書き物に対しどのように感じられるのでしょうか?是非ご意見が聞ければと思うのですが…写真は、当時の赤道祭のスナップです。
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ボリビアのラパス在住の南雲謙太郎さんからのお便り。
あるぜんちな丸第12次航(1962年5月11日サントス入港)でボリビア国に移住された南雲謙太郎さんから次のようなお便りが届いています。写真は、南雲さんの住んでおられるボリビアの首都ラパスの町並みです。遠くに万年雪を湛える山々が見えます。
名前 南雲 謙太郎
生年月日 昭和23年9月20日
出身県 長崎県 長崎市港外高島町端島
入植地 サンタクルース州 サン フアン移住地
当時の家族構成 家長 南雲 勲(父) マサ子(母) 三代子(姉 次女) 本人(長男) 忠範(次男)
現住所 Calle Eduardo Berdecio #1800 eqa Landaeta Alto San Pedro
Tel (02)248-7091 FAX(02)248-7222 Casill(P.O.BOX) No 4318
La Paz Bolivia
E-Mail kentngm@ceibo.entelnet.bo
現在の家族構成 家長 本人、デイ子(妻 二世)、 奈々美(長女)、清美(次女)、広見(長男)
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