HOME  HOME ExpoBrazil - Agaricus, herbs, propolis for health and beauty.  Nikkeybrasil  編集委員会  寄稿集目次  寄稿集目次  通信欄  通信欄  写真集  リンク集  準会員申込  em portugues




戦後第1回移民(サントス入港ベース)として15歳でブラジルに移住された冨家 修さん。
和歌山県白浜出身の1937年10月24日生まれの冨家 修さん(64歳)は、現在も現役で日系旅行者最大手のTUNIBRAのDIRETORとして活躍されております。先週、サンパウロに出張の際、日本の友人からの依頼もあり日本からの団体旅行に付いての相談に伺う機会がありお話を聞かせて頂きました。戦後移住のサントスに到着した第1回移民として1953年7月8日に構成家族の一員としてルイス号で到着、マット・グロッソ州の松原移民の第一陣としてドラドス移住地に入植されたとの事。正確には戦後移住の第1回はアマゾンの辻小太郎が許可を取得した辻移民が前年の1952年12月に日本を発っている様ですが、バルガス大統領の友人として特別移民許可を得た松原移民の第2回目がサントス到着第一陣となっている様です。

城 島 学 校  あるブラジル日系異色企業の足跡
一つの企業から、かくも多くの人材が独立発展したという例がはたしてブラジル
80年の日系コロニアの歴史にあったでしょうか。戦後移住者や二世の若者に果たした城島商会の役割は正に「学校」ではなかったか。。。。60年間在伯したある移住者が設立した「異色日系企業」の足跡をたどる。ブラジルの熱い時代とその中を歩んだ城島慶次郎とその周辺。(城島学校表紙の扉書きより) 掲題の312ページの『城島学校』刊行委員会のメンバーで編集責任者の神戸高校10回生の山下 日彬(テルアキ)さんから同書の寄贈を受けた。私が最初にブラジルに住んだ学生時代の二年間は、この城島商会を連絡先として使用させて頂き神戸高校の同窓生が何人もお世話になっていた懐かしい会社であり、私も城島学校に一宿一飯の草鞋を脱いだ聴講生?の一人でビラマリアーナにあった城島御殿に御呼ばれに行った事もある事から同書から幾つか抜粋して掲載させて頂く事にします。

城島学校 あるブラジル日系企業の足跡(2)
城島学校には親しい友人、知人がそれぞれの証言、思い出等を寄稿しておりますがそのうちの一つ編集責任者で私と同級生の山下 日彬(テルアキ)さんの『クラブ活動で頑張った』
を転載させて貰います。写真は、昨年リオのBARRA de TIJUCAの海浜を早朝に二人で歩いた時に撮らせて貰ったものです。
現在の職業=ヤコングループ代表。中南米専門の経営コンサルタント、国際宅急便、情報サービス、エヤーカーゴサービス、宣伝プロモーションサービス、サンパウロ、リオ、ブラジリアに11拠点、国際空港に事務所。従業員=70名。1940年生。一男一女の父。マッケンジー大学経済卒。趣味=読書、水泳、パソコン。丸いボールは何をやらせてもダメな人。(1993年同書発行当時の資料)

拓 跡  リオ・グランデ・ド・スール 日本移民第1回 1956-1996
移民船ブラジル丸は、リオ・グランデ港に初寄港。23人の単身青年移住者を運ぶために23人が下船した後、ブラジル産大豆をからになった船倉に吸い込むように積んだ。夕闇せまる埠頭には引受人のない23人の青年が50日間のわが家だった船と別れ、正直言って置き去りにされた感じだった。船上からは壮途の祝詞、別れの曲が流れてくる。岸壁の青年達は大きな声で手を振り、さようならと叫んだ。ブラジル丸がシルエットを小さくしてゆく。ボーツと最後の汽笛を鳴らした時は、皆沈黙の直立不動で涙をふくてはもち得なかった。66ページの『拓跡』に掲載された戦後最初のリオ・グランデ・ド・スール州への移住者23名の単身青年を乗せてリオ・グランデ港に寄港したブラジル丸の写真の説明文である。
この単身青年23名のブラジル定着40年を豊富な写真と共に記録した記念誌『拓跡』を編集者の栗原 隆之さんから寄贈して頂いた。貴重な資料でもあり出来るだけ転載させて頂きたいと思いますが、まず『拓跡』の表紙と栗原さんのご挨拶を掲載して置きます。栗原さんは現在も南日伯援護協会の事務局長として南伯の日系コロニアの皆さんのお世話をして下さっています。

J1 VISSEL神戸 松田 浩新監督頑張れ!!
ブラジル移住史の中で戦後移民の単身移民を組織的に受け入れ(送り出した)団体が幾つかあります。コチア青年、力行会、産業開発青年隊、花嫁移住等を『私達の40年!!』HPでも同船者を中心に紹介しておりますが、直接移住を目指さない日本とブラジルを繋ぐ掛け橋的人材養成を目指して既に600人近い大学生を中心に21年間に渡って送り続けている団体日伯交流協会の存在は注目されます。私も遠い昔の放浪時代にお世話になった多くの人達への間接的なお礼として順送りの気持ちで「自分より後に来る若者」へ少しでもバトンを渡せればとの願いを込めてお手伝いしておりますが、第1期生のポルトアレグレのインテルナシオナルでボール蹴りの研修をした当時筑波大学のサッカー部に所属していた松田 浩君が最近神戸ヴィッセルの監督に就任、先週は監督として始めての1勝を挙げ年末までの第2ステージを含め監督として指揮をとる事になったとの知らせを受け嬉しく思っています。彼が日伯交流協会のHPに寄稿している文をそのまま転載して置きます。改めて近況など寄稿して貰えるようにお願いして見ます。写真は、96年に松田君が廣島より神戸に移籍した直後に神戸で会った時に撮ったツーショットです。

日伯交流協会 藤村 修 理事長よりのお便り!!
日伯交流協会に付いては既に幾つかご紹介させて頂いておりますし詳細はリンク集にも同協会のHPをリンクさせて頂いておりますのでご覧下さい。
日本とブラジルの掛け橋的人物を養成することを目的に『日本ブラジル青少年交流協会』の発足当時から数えて22期生が現在ブラジル各地で1年間の研修に励んでおり移住を対象とした新しい血の導入がストップしている現在、新しい形での若者のブラジル研修を通じての日伯交流活動は非常に大切で貴重な制度として今後も地道な若者を通じての日伯交流に期待している次第です。日伯交流協会の元研修生のブラジル研修体験談をこれからも戦後移住史の一端として掲載して行く積りです。藤村 修理事長は、元日伯交流協会の事務局長として既に30数回ブラジルを訪問しておられる国会議員中きってのブラジル通です。現在は民主党大阪選挙区選出の衆議院議員として国政に携わっておられますがブラジルの多くの友人、知人からは今も人懐こい、気さくな昔のままの藤村として親しまれています。

日伯交流協会 玉井 義臣会長の2002年年賀状
既に幾つか日伯交流協会関係の記事は掲載しておりますが、最初にお会いした交通遺児育英会の研修大学事業実施時代から25年近い歳月が流れ日伯交流協会の前身日本ブラジル青少年交流協会の第1期生引受け以前からの親しいお付き合いをさせて頂いており来伯時には必ずポルトアレグレにも立ち寄って戴き3人娘の成長をFLW戴き、訪日時には何時も再会を楽しんで来ました。今年は、久しぶりの年賀状を戴きましたので掲載しておきます。写真は、96年の訪日時に日伯交流協会の事務所で撮らせて戴いたものです。
年賀状は、自筆のものと官製葉書に印刷されたものが関係カラー写真と共に送られて来ました

ブラジル研修から「日伯架け橋の会」へ 4期生 櫻澤 健一(現、警察庁)
日伯交流協会(旧称 日本ブラジル青少年交流協会)の研修生は現在600名を越す元研修生を排出日伯架け橋の会を通じて今も元研修地ブラジルとの絆を大切にしながら日本とブラジル、否世界を股に掛けて各界で活躍しております。4期生の櫻澤 健一君の=ブラジル研修から「日伯架け橋の会」へ=の寄稿文を日伯交流協会のHPから転載させて戴く事にしました。櫻澤君達の4期生とは特に16名全員を中間研修時に南伯に迎えポルトアレグレ、カシアス、ラーモス移住地等を訪問して貰った関係もあり印象強い団結の16名です。山口現日伯交流協会事務局長がまだニチレイのレシフェ事務所でアセローラの対日輸出に汗を流している時にレシフェを家族と共に訪問し蝋山さん、浜口君と4期生3名と再会、バルガッソでムケッカを皆で突いた懐かしい思い出があります。当時、良くお客さんを我が家に招く機会がありましたが、若者16名が一度にバスで乗り付け皆でカレーの食べ放題パーテイには流石の女房も根を上げ特にライスが間に合わず3度も我が家の大釜で炊いて凌いだ事を今でも思い出してコメントしています。写真は、多分櫻澤君が撮ったものと思いますがインテルナシオナルのサッカー場内での全員の記念撮影です。真中にいる小さいのが既に25歳になり現在ポルトガル語の新聞記者として東京で働く長女弥生で抱かれている小さいのが次女の茜です。